「空が落ちてくる」 ◆稽古の朝 港へ続く坂道を、グラニは下っていた。 足が重いわけじゃない。 むしろ、勝手に前へ出る。 止まりたくても、止まれない。 胸の奥が、ずっとざわざわしている。 昨日のことを思い出そうとすると、途中で引っかかって、うまく形にならない。 (……考えるな) 自分に言い聞かせて、また一歩進む。 港の匂いがした。 潮と魚と、濡れた木の匂い。 いつもの朝と同じはずなのに、今日は少しだけ鼻につく。 受付には、グリーンがいた。 帳面を広げ、看板を立てている。 グラニが近づくと、グリーンはちらっと見て、すぐ視線を戻した。 「来たな」 それだけ。 昨日みたいに煽りもしない。 もう分かっている顔だった。 グラニは頷いて、何も言わない。 受付の椅子に座ろうとして、やめた。 じっとしていられない。 そのとき。 「グラニ」 低い声が、すぐ後ろから聞こえた。 振り向く前に、分かった。 空気が違う。 軍隊長が、そこに立っていた。 汗が光っている。朝から体を動かしていたのだろう。 「来い」 短い言葉。 それだけで、足が動いた。 軍隊長の後ろを歩き出した瞬間—— 港の音が、途切れた。 ◆空の音 最初は、何の音か分からなかった。 風? 帆が鳴った? 違う。 重い。 空気が、重たい。 誰かが、息を呑む音がした。 次の瞬間、影が落ちた。 港全体が、一段暗くなる。 太陽が隠れたわけじゃない。 ——何かが、上を通った。 グラニは、反射で空を見上げた。 巨大な影。 羽。 広がりすぎて、形が分からない。 頭が真っ白になる。 ドンッ!! 衝撃が、足元から突き上げた。 木が割れる音。 何かが弾ける音。 悲鳴。 「伏せろ!!」 怒鳴り声が飛ぶ。 誰の声か分からない。 でも体が勝手に動いて、地面にしゃがみこんだ。 砂が顔に当たる。 喉が詰まる。息が浅い。 何が起きているのか、分からない。 分からないまま、怖い。 頭の中が、音でいっぱいになる。 ◆見えていない 何かが動いている。 視界の端で、大きなものが揺れる。 羽? 爪? 分からない。 見ようとすると、目が逸れる。 耳鳴りみたいな音がして、遠くで誰かが叫んでいる。 言葉になっていない。 体が固まって、指先が冷たい。 足に力が入らない。 誰かが走る音。 ぶつかる音。 「こっちだ!」 腕を掴まれた。 強い力で引っ張られ、よろける。 地面を引きずられる感覚。 「グラニ!」 父の声だと分かるまで、少し時間がかかった。 足がもつれる。 転びそうになる。 何かが叫ぶ。 耳を塞ぎたくなる。 風が叩きつけられ、思わず目を閉じた。 ◆避難 いつの間にか、港の奥にいた。 建物の影。 人が密集している。 泣いている声。 怒鳴っている声。 グラニは座り込んでいた。 自分で座ったのか、下ろされたのか分からない。 手が震えている。 止めようとしても止まらない。 胸が苦しい。 息がうまく吸えない。 外で、何かがぶつかる音がした。 低い叫び声。 金属が鳴る音。 何が起きているのか、見えていない。 見ようとも思えない。 ただ、怖い。 時間の感覚がなくなる。 長いのか、短いのかも分からない。 ◆静かになる どれくらい経ったのか分からない。 外の音が、少しずつ変わった。 叫び声が減り、代わりに低い声が増える。 木を叩く音。 物を動かす音。 誰かが、「大丈夫だ」と言った気がする。 父の手が、まだ肩にある。 その感触だけが、現実だった。 「……もう、いい」 父が言う。 グラニは頷こうとして、うまく動かなかった。 ◆戻った港 しばらくしてから、港へ戻った。 さっきまでの混乱が、嘘みたいに静かだった。 でも、何も元には戻っていない。 割れた樽。 散らばった魚。 壊れた板。 血の跡。 鼻の奥が、つんとした。 人は動いている。 誰も立ち止まらない。 怒鳴られながら、荷を運ぶ人。 板を打ち直す人。 その中に—— 二人いた。 パイルとナッド。 甲板の近くで、ロープを結び直している。 服が汚れている。 顔も、いつもより硬い。 兵士に何か言われ、パイルが歯を食いしばる。 ナッドは何も言わず、手を動かす。 二人とも、黙っている。 笑っていない。 その瞬間。 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。 理由は分からない。 考える前に、痛みが来た。 さっきまで、何も感じなかったのに。 怖さしかなかったのに。 急に、悔しい。 喉の奥が、熱くなる。 目の奥が、つんとする。 (……なんで) 言葉にならない。 ただ、悔しい。 グラニは拳を握った。 爪が掌に食い込む。 さっきの自分を思い出す。 動けなかった。 何もできなかった。 パイルとナッドは、今も動いている。 比べようとしたわけじゃない。 でも、勝手に比べてしまった。 胸が、痛い。 ◆稽古はない 軍隊長が、少し離れたところに立っていた。 グラニの方を見る。 「今日は、終わりだ」 それだけ。 稽古の話は、出なかった。 グラニは、何も言えずに頷いた。 港は、少しずつ元に戻っていく。 でも、さっきの光景は、消えない。 空の影。 衝撃。 動けなかった自分。 そして—— 黙ってロープを結ぶ二人の背中。 グラニは、俯いたまま、その場を離れた。 何をすればいいか、まだ分からない。 でも、戻れない気がした