「昼から来い」 ◆朝は来る 朝は、来る。 それだけは、どうやっても避けられなかった。 グラニはベッドの上で目を開けたまま、天井を見ていた。 昨日のことを思い出そうとすると、途中で途切れる。 音と風と影が、ごちゃっとしたまま頭の奥に残っている。 あの巨大な影。 割れる木の音。 誰かの悲鳴。 ——そして、何もできなかった自分。 (……仕事) それだけを考えて、体を起こした。 着替えて、顔を洗って、パンを口に押し込む。 母のイールは何も言わなかった。 それが、逆にありがたかった。 港へ向かう足取りは、いつも通りだった。 速くもなく、遅くもなく。 軍隊長のところへ行く足じゃない。 商人の手伝いに行く足だ。 そう思わないと、歩けなかった。 ◆いつもの港、いつもじゃない空気 朝の港は、忙しい。 でも今日は、少しだけ音が低かった。 壊れた板が新しい板に替わっている。 ロープが新しく張り直されている。 昨日の名残が、あちこちにある。 商人たちは黙々と修復作業を続けていた。 誰も、昨日のことを口にしない。 だが、時折空を見上げる者がいる。 受付では、グリーンが準備をしていた。 ——いや、違う。 話している。 軍隊長と。 グラニは、足を止めた。 行くべきか、少し待つべきか分からない。 軍隊長の背中が見える。 昨日、あの影に向かって飛び出していった背中。 結局、いつも通り前に出た。 グリーンが先に気づく。 「お! グラニ〜」 いつもの声だった。 少しだけ、柔らかい。 「大丈夫だったか〜? 心配してたぞ〜」 「……うん」 グラニは短く答えた。 軍隊長も、グラニを見る。 「昨日は、すまなかったな」 一言だけ。 重くも軽くもない言い方だった。 「ううん……僕は大丈夫」 グラニはそう言ってから、少し間を置いた。 「……でも、昨日は、何があったの?」 軍隊長は即答した。 「鳥だ」 「……鳥?」 グラニが聞き返すと、横からグリーンが割り込む。 「そうだ〜! でっかい鳥だ〜!  本当は昨日の夜、七面鳥の丸焼きでもできたのにな〜。  軍隊長が追い返しちゃったんだとさ〜」 楽しそうに言う。 軍隊長は、少しだけ口の端を上げた。 「急だった。武器も持っていなかった。  軍の力では、あれが限界だった」 「え〜、じゃあ惜しかったじゃん〜」 「惜しくはない」 グラニは二人の会話を聞きながら、昨日の音を思い出しかけて、やめた。 「……本当に、鳥なの?」 自分でも、なぜそう聞いたのか分からない。 「すごい風とか、叫び声とか……  みんな、すごく慌ててた」 グリーンが答えた。 「鳥型のモンスターだな〜。  島の奥の方にいるやつだ。  滅多に港まで来ないんだけどな〜」 軍隊長が頷く。 「大陸にも似たようなやつはいる。  縄張りを荒らされたか、何かに追われたか」 「なんで来たの?」 「分からん。  だが、それなりに痛い目は見せた。  しばらくは来ないだろう」 グリーンが、肩をすくめる。 「まぁ、世の中広いもんだ〜。島ん中もな〜」 グラニは、それ以上聞かなかった。 聞いていいのか分からなかった。 ただ、一つだけ分かったことがある。 ——軍隊長は、あの場にいた誰よりも、動いていた。 ◆延期と、約束 軍隊長が、港の方を一度見回した。 「今日の出発は、延期になった」 グラニは少し驚いた。 「挑戦……?」 「ああ。  昨日の件で、準備が後ろにずれた」 グリーンが頷く。 「港もな〜、まだ完全じゃねぇしな〜。  ま、数日はかかるだろ〜」 軍隊長は、グラニを見た。 「稽古の約束は、まだだったな」 グラニは、背筋が少し固くなる。 「……うん」 「昼から来い。  復旧も、そこそこ落ち着くだろう」 グリーンが、すかさず言った。 「おっ! よかったなグラニ!  昨日、無責任キャンセルした分、  1回稽古追加してくれるってよ!」 「——違う」 軍隊長が、思わずグリーンを見る。 驚いた顔だった。 本当に予想していなかった、という顔。 「私は、そんなことは……」 「え〜? 言ってないだけでしょ〜?  でも鳥のせいだもんな〜。仕方ないよな〜」 グリーンはニヤニヤしている。 軍隊長は黙った。 否定もしない。 グラニは、二人のやり取りを見ながら、口を開いた。 「……でも」 声が小さくなる。 「……昨日、僕……」 ——何もできなかった。 動けなかった。 怖くて、震えていた。 言葉が続かない。 軍隊長は、間を置かず言った。 「大丈夫だ。  昼から来い」 それだけ。 命令みたいで、でも押し付けがましくなかった。 責めてもいない。 慰めてもいない。 ただ、「来い」と。 グラニは、頷いた。 ◆午前の仕事 それからの時間、グラニはいつも通り働いた。 荷を運ぶ。 伝言を聞く。 場所を案内する。 体は動く。 頭も、ちゃんと使える。 でも、ふとした拍子に、 新しく張られたロープを見ると手が止まりそうになる。 すぐ、動かす。 考えない。 メーカーの道具屋で荷物を受け取るとき、店主が言った。 「お前、昨日大丈夫だったか?」 「うん……大丈夫。でも、初めて見た……あんなの」 「そうか。まあ、たまにあるんだ、ああいうことは。  グラニは港の手伝い始めたの最近だもんな。  俺も若い頃に一回だけ見たことあるよ」 メーカーはジュースを一杯出してくれた。 甘い果実の味が、喉を通っていく。 (……たまにあるんだ) 話には聞いたことがあった。 島の奥には、危険なモンスターがいると。 でも、実際に見たのは初めてだった。 昼が近づくにつれて、胸の奥が重くなる。 逃げたいわけじゃない。 でも、行きたいとも言えない。 (……昼から) それだけが、ずっと引っかかっていた。 ◆昼 港に戻ると、グリーンが手を振った。 「グラニ〜! 軍隊長、あっちで待ってるぞ〜!」 指差す方向を見ると、港から少し離れた広場があった。 訓練用の場所だろう。兵士たちが何人か立っている。 足が、急に重くなる。 「行ってこい〜」 「……うん」 グラニは、ゆっくりと歩き出した。 広場に近づくと、軍隊長の姿が見えた。 腕を組んで、待っている。 周りの兵士たちが、ちらりとグラニを見た。 何も言わない。ただ見ているだけ。 グラニは、軍隊長の前で立ち止まった。 「来たか」 「……うん」 軍隊長は、グラニを上から下まで見た。 「良い顔だ」 「……え?」 「怖いんだろう。  でも来た。  それでいい」 グラニは、何も言えなかった。 バレていた。 全部、見抜かれていた。 でも、軍隊長は笑わなかった。 馬鹿にもしなかった。 「始めるぞ」 その言葉で、グラニの「稽古」が始まった。