「一人で行く」 ◆帰還の夜 港に戻った夜。 兵舎は、静まり返っていた。 負傷者は治療を受けている。 疲労した者は、泥のように眠っている。 軍隊長は、一人で机に向かっていた。 ランプの灯りが、揺れている。 机の上には、副官がまとめた今日の戦況記録が置かれていた。 死者:ゼロ 重傷者:四名 軽傷者:八名 到達地点:第一地点の手前、約二時間の距離 軍隊長は、書面を机に置いた。 「……足りん」 声は、誰にも聞こえなかった。 今日の結果は、失敗ではない。 死者を出さずに帰れた。 それは、指揮官として正しい判断だった。 だが—— 「これでは、アルダの名が立たん」 軍隊長は、立ち上がった。 窓から、夜の港が見える。 月明かりに照らされた海が、静かに揺れていた。 アルダ大陸は、軍事大国だ。 世界最強を自負する国。 その精鋭部隊が、この島に来た。 そして——入り口で、引き返した。 「大陸に報告すれば……」 言葉が、途中で止まった。 報告すれば、どうなる。 『アルダ軍、双極島の入り口で撤退』 そんな報告が、本国に届けば。 軍隊長の肩が、重くなった。 自分の名誉だけではない。 部下の将来。 アルダ軍全体の威信。 すべてが、この挑戦にかかっている。 「……やるしかない」 軍隊長は、決断した。 ◆翌朝——作戦会議 翌朝。 兵舎の会議室に、幹部が集まっていた。 副官、第一班長、第二班長、第三班長。 昨日の戦闘で生き残った者たちだ。 軍隊長が、口を開いた。 「昨日の結果を踏まえ、作戦を変更する」 幹部たちが、姿勢を正す。 「多数で行くより、少数で行った方が効率がいい」 副官が、眉をひそめた。 「隊長……それは、どういう意味でしょうか」 「そのままの意味だ。  大人数は、足手まといになる」 会議室が、静まり返った。 「昨日の戦闘を思い出せ。  敵は、数で来た。  我々も、数で応じた。  だが、結局は俺が前に出るまで、膠着状態だった」 軍隊長の声は、冷静だった。 「あの程度の敵に、あれだけの被害が出た。  さらに奥へ進めば、敵はもっと強くなる。  大人数では、守るべき者が増えるだけだ」 第一班長が、声を上げた。 「では……どうするのですか」 「俺が一人で行く」 沈黙。 そして、爆発するような反対の声。 「隊長! そんな無茶な!」 「一人で行くなんて、自殺行為です!」 「我々は、隊長を守るためにここにいるんです!」 軍隊長は、手を上げた。 声が、止まる。 「聞け」 低い声。 有無を言わさぬ響きがあった。 「俺は、死にに行くわけではない。  勝算があるから、行くのだ」 「勝算……?」 「昨日、俺は本気を出した。  あの程度の敵なら、一人で十分対処できる」 軍隊長の目が、鋭くなった。 「問題は、守る相手がいることだ。  お前たちがいれば、俺は全力を出せん。  背中を気にしながら戦うことになる」 副官が、何か言いかけて、口をつぐんだ。 「一人なら、好きなように動ける。  休みたいときに休める。  逃げたいときに逃げられる。  そして——攻めたいときに、全力で攻められる」 軍隊長は、地図を広げた。 「目標は、第一地点への到達。  そこに旗を立て、アルダ軍がここまで来たという証を残す」 「隊長……」 「お前たちは、ここで待機だ。  俺が戻らなければ……」 言葉が、一瞬止まった。 「……その時は、本国に報告しろ。  『軍隊長は、双極島で戦死した』と」 会議室が、また静まり返った。 ◆パイルとナッド 会議の内容は、すぐに兵士たちに伝わった。 パイルとナッドは、兵舎の隅で話を聞いていた。 「……軍隊長、一人で行くんだって」 パイルの声は、低かった。 「……聞いた」 ナッドは、無表情だった。 でも、目が揺れている。 「なんで……一人で……」 「多分、私たちのせいでもある」 「……え?」 「昨日、軍隊長がモンスターを追い払ったとき。  私たち全員が、足手まといだった」 パイルは、言葉を失った。 「軍隊長は、一人でも戦えた。  でも、私たちを守りながら戦っていた。  だから、全力を出せなかった」 「……っ」 パイルは、拳を握りしめた。 「くそ……俺たちが、もっと強かったら……」 「今更言っても仕方ない」 ナッドは、立ち上がった。 「今の私たちにできることは、見送ることだけ」 「見送る……」 「そう。そして、待つ」 ナッドの声は、静かだった。 「軍隊長が戻ってきたとき、  ちゃんと迎えられるように」 ◆準備 軍隊長は、一日をかけて準備をした。 必要最低限の装備。 食料は三日分。 水は二日分。 武器は剣一本と、予備の短剣。 鎧は、軽量なものに変えた。 機動性を重視するためだ。 「隊長」 副官が、近づいてきた。 「なんだ」 「これを」 差し出されたのは、小さな袋だった。 「傷薬です。  兵站から、一番良いものを選びました」 軍隊長は、少し間を置いてから、袋を受け取った。 「……すまん」 「どうか、ご無事で」 副官の声は、震えていなかった。 でも、目が赤かった。 軍隊長は、何も言わずに頷いた。 ◆前夜 出発は、翌日の早朝と決まった。 その夜。 軍隊長は、一人で港を歩いていた。 月が、高く昇っている。 波の音が、静かに響いている。 「よう〜」 声がした。 振り向くと、グリーンが立っていた。 「こんな時間に、何してんだ〜?」 「……散歩だ」 「散歩ね〜。明日、行くんだろ〜?」 軍隊長は、足を止めた。 「……知っていたか」 「まあな〜。港の噂は早いんだよ〜」 グリーンは、軍隊長の横に並んだ。 二人で、海を見る。 「一人で行くなんて、無茶だな〜」 「……そうかもしれん」 「でも、行くんだろ〜?」 「ああ」 軍隊長の声は、迷いがなかった。 「俺は、アルダ軍の隊長だ。  部下を守り、任務を遂行する。  それが、俺の仕事だ」 「……かっこいいこと言うね〜」 「かっこいいかどうかは分からん。  ただ、やるべきことをやるだけだ」 グリーンは、少し笑った。 「お前さん、いい顔してるよ〜」 「……何がだ」 「覚悟が決まった顔だ。  そういう顔の人間は、強いんだよ〜」 軍隊長は、何も言わなかった。 グリーンは、続けた。 「ま、俺からは何も言わねぇよ〜。  ただ、一つだけ覚えとけ〜」 「何だ」 「死ぬな〜」 軽い口調。 でも、目は真剣だった。 「死んだら、全部終わりだ〜。  名誉も、任務も、何もかも。  だから、何があっても、生きて帰れ〜」 軍隊長は、グリーンを見た。 この男は、何者なのか。 ただの港の商人ではないような気がする。 でも、今は聞かない。 「……ああ。生きて帰る」 グリーンは、満足そうに笑った。 「よし〜。じゃあ、行ってこい〜」 ◆グラニの見送り 翌朝。 まだ暗いうちに、グラニは港にいた。 母に何も言わずに家を出た。 なぜか、来なければいけない気がした。 軍隊長が、広場にいた。 一人で、装備を確認している。 兵士たちが、少し離れた場所に立っていた。 見送りに来たのだろう。 全員が、敬礼の姿勢で待っている。 パイルとナッドも、そこにいた。 グラニは、近づいた。 軍隊長が、気づいた。 「……お前か」 「……うん」 グラニは、何を言えばいいか分からなかった。 軍隊長は、装備の確認を続けながら言った。 「稽古の続きは、帰ってからだ」 「……うん」 「それまでに、もう少し体を作っておけ。  今のままでは、剣を振るのがやっとだ」 「……分かった」 軍隊長は、装備を身につけ終わった。 立ち上がる。 グラニを見下ろす。 「グラニ」 「……はい」 「お前には、見込みがある」 グラニは、息を呑んだ。 「諦めるな。続けろ。  俺が戻ったとき、少しはマシになっていることを期待する」 「……はい!」 グラニの声が、少し大きくなった。 軍隊長は、かすかに笑った。 そして、振り返った。 兵士たちに向かって、声を上げる。 「俺は、行く。  お前たちは、ここを守れ。  俺の帰りを待て」 「「「はっ!!」」」 兵士たちの声が、響いた。 軍隊長は、歩き出した。 南へ続く道。 まだ暗い。 でも、東の空が少しだけ明るくなり始めていた。 グラニは、その背中を見ていた。 パイルとナッドも、見ていた。 誰も、声を出さなかった。 軍隊長の姿が、少しずつ小さくなっていく。 やがて、見えなくなった。 ——アルダ軍隊長の、単独挑戦が始まった。 ◆残された者たち 軍隊長の姿が消えてから、しばらく誰も動かなかった。 副官が、最初に声を出した。 「……各自、持ち場に戻れ。  負傷者の看護、装備の整備、港の警備。  やるべきことは山ほどある」 「「はっ」」 兵士たちが、散っていく。 パイルとナッドは、その場に残っていた。 「……俺たち、何すればいいんだ」 パイルが、つぶやいた。 「訓練」 ナッドが、即答した。 「……訓練?」 「軍隊長が戻ってきたとき、  少しでも強くなっておく。  それが、今の私たちにできること」 パイルは、少し黙ってから、頷いた。 「……そうだな」 二人は、訓練場に向かって歩き出した。 グラニは、まだ港にいた。 グリーンが、近づいてきた。 「グラニ〜、仕事だぞ〜」 「……うん」 「心配か〜?」 「……うん」 グリーンは、グラニの肩を叩いた。 「大丈夫だ〜。  あの人は強い。  そう簡単には死なねぇよ〜」 「……本当?」 「本当だ〜」 グリーンは、いつもの調子で言った。 でも、目は空を見ていた。 南の空を。 (……頼むぞ、軍人さん) 心の中で、そうつぶやいた。