――強き者は、戦いを求めていました。 それは欲ではない。生存の証。 われらの祖は"冑(かぶと)なき軍"を編み、 異存の影を墜とす。 〈名:葦原(あしはら) 透真(とうま)〉 〈位:戦継者衆 頭領〉 記録:蒼零歴 一四三年――  ここに記すは、一つの戦の前段。  まだ大きな名も付けられていない、小さな戦いと、その前の日々のことである。 ◇  空は、今日も灰色だった。  砦の上に広がる雲は、厚くはない。  だが、青を隠すには足りている。  日差しは薄く、風は乾いている。  土を踏む足の音と、木剣がぶつかる音が、朝の空気を満たしていた。  土塀と木柵を組み合わせた防壁。  その内側一角に、土を踏み固めただけの鍛錬場がある。  粗末な丸太を打ち込んだ的。割れた木盾。  そこに十数人の戦継者が散り、互いに斬り結んでいた。 「止め!」  短い号令とともに、刃が止まる。  訓練用の木剣であっても、人の頭を叩き割るには十分だ。  息を荒げ、鎖帷子の隙間から汗を滴らせながら、若い戦継者たちが一斉に姿勢を正した。  その前に立つ男は、片刃の長剣を腰に下げていた。  身の丈は高くも低くもない。  痩せているようで、動きには無駄がない。  黒髪を後ろでひと束にし、眼差しだけで場を冷やす。  葦原透真。冑なき軍の頭領。 「三組目。前へ」  静かな声だが、鍛錬場の隅まで届く。  呼ばれた者たちが一歩進み出る。  まだ若い顔。  この砦に来て一年と経たぬ者もいれば、数年を過ごしてきた者もいる。 「いつも通り、三合。  だが、一つだけ変える」  透真が、片刃にそっと触れる。 「戦場で、お前たちの相手は、一人きりではない。  今からは、三方から同時に来ると思え」  三組のうち、一人が思わず息を呑んだ。  すぐ隣の仲間が、肘で小突く。 「ほら来たぞ、頭領の意地悪だ」 「聞こえているぞ」  透真はそう言いながらも、わずかに口元を緩めた。  笑ったのか、それとも見間違いか。  若い戦継者たちは判断がつかない。 「構え」  三人が円を描くように位置を取り、互いを睨む。  砂を踏む足。  木剣を握る指先に、力がこもる。 「始め」  号令と同時に、砂が跳ねる。  一人が踏み込んだ瞬間、背中側から別の者が斬りかかる。  打ち合いの音が絡まり合い、息遣いが荒くなる。  透真は、一歩下がった場所からそれを見ていた。  剣を抜くこともなく、ただ視線だけで一人ひとりの動きを追う。  ――踏み込みが浅い。  ――迷いが刃に出ている。  ――背中を見せるな。  口に出しはしない。  戦場では、誰も教えてはくれないからだ。  三合。  木剣が互いの首筋や胴を捉え、三人がほぼ同時に膝をついた。 「止め」  透真が近づく。  砂に押し付けられた木剣の先。  その先に、自分の喉があると仮定する。  それが、この砦で教えられる全てだ。 「今のは、三人とも死んでいる」  淡々と告げる。 「俺が敵なら、最初の踏み込みで一人。  二合目で、もう一人。  三合目を待たずに、お前たちはここにいない」  若者たちは、肩で息をしながらも、言い返さない。  それが事実だと知っているからだ。 「だが、ここは戦場ではない。  ここで何度間違えようが、死にはしない」  透真は腰の片刃に手をかけた。 「覚えておけ。  戦場で一度失敗した者は、それで終わりだ。  ここでは、百度でも千度でも失敗していい。  そのために砦があり、そのために俺がいる」  そう言って、片刃を抜いた。  一歩。  踏み込みは浅いように見えた。  だが、空気がわずかに揺らぎ、世界の線が変わる。  護心流――結界を張り、敵の軌道を読み、攻撃を逸らす技。  透真の結界は、薄く、広い。  目には見えぬが、その一歩の周囲に、透明な膜のようなものが広がっていた。  透真の刃は、次の瞬間、三人の目の前に止まっていた。  首筋。喉元。眉間。  刃と肌の間には紙一枚分ほどの空間しかない。  それでも、刃は触れていない。  誰も、その動きを正確には見ていない。  ただ、気づいたときには、刃がそこにある。  結界の中で敵の動きを読み、自らの軌道を最短に縮める。  だからこそ、彼の一歩は、誰よりも短く、誰よりも遠く届く。 「これが、俺の一合だ」  透真は片刃を引き、鞘に戻した。 「今のを、そのまま真似る必要はない。  ただ、覚えておけ。  お前たちの踏み込みの先にも、敵の踏み込みの先にも、必ず『届く一歩』がある」  三人は、喉の奥に張り付いた空気を無理に飲み込み、深く頭を下げた。  その背中に、汗が一筋落ちる。 ◇  鍛錬が終われば、次は腹を満たす刻だ。  砦に暮らす者にとって、飯は戦と同じくらい大事な務めである。  砦の中央、井戸のそばに、粗末な屋根をかぶせた飯処があった。  大鍋で煮られた芋と乾燥肉。  塩をふった干し魚。  麦飯と、たまに出る薄い味噌汁。  それらが、木の椀に盛られて次々と配られていく。 「はいよ、二人分。おかわりは並んでね!」  飯処の女が大きな声を張り上げた。  木の椀を二つ受け取った男が、そのうちの一つを後ろへ差し出す。 「ほらナギ。手を出せ」 「ありがとうございます、レンさん」  熾道レン。第五部隊副長。  彼の後ろで受け取ったのは、芹沢ナギ。まだどこか少年の面影を残す若い戦継者だ。  レンは自分の分の椀を片手で持ちながら、口角を上げた。 「頭領の稽古、どうだった?」 「……首、飛びました」 「飛ばされてねえから、ここで飯食ってるんだろ」  どさっと腰を下ろし、レンは芋を一つ放り込む。  ナギも隣に座り、木の椀の湯気を見つめた。 「でも、あの一歩……目で追えませんでした」 「追おうとするから、追えねえんだ」 「へ?」 「頭領の一歩は、目で見るもんじゃねえよ。  どうせ真似できねえんだから、感じるだけ感じときゃいい」  ざくざくと芋を噛みながら、レンは肩をすくめた。 「俺たちは俺たちの一歩を覚えりゃいい。  お前はお前の、腰の据わった一歩をな」 「……腰、ですか」 「そうだ。お前、すぐ足だけで踏み込む癖がある。  それだと、怖くなったときに足が止まる」  ナギは痛いところを突かれた顔をした。  レンは、わざと大袈裟にため息をつく。 「まあ、その辺はまたミナトに怒鳴られりゃいい」 「隊長に怒鳴られるの、嫌ですよ……」 「嫌なうちが華だ。声もかけられなくなったら、もう終わりだぞ」  そこへ、もう一つの影が近づいてきた。 「レンさん、ナギ。ここ、いいですか」  木の椀を両手で持った女が、二人の前に立つ。  葦原リツ。第五部隊に所属する戦継者。  腰には簡素な刀。  柄には飾り気がなく、その代わりに、握り込まれた跡が深く刻まれている。 「おう、リツ。座れ座れ」  レンが隣の木箱を足で押し、腰掛け代わりにする。  リツは礼を言って腰を下ろし、湯気の立つ椀を見つめた。 「今日も芋ですね」 「芋があるだけありがたいだろ。  前に出た砦なんざ、芋の皮と干からびた根っこしか出ねえってよ」 「聞いただけで胃が痛くなります」  控えめに笑ってから、リツは箸を取る。  ナギが箸を持つ手を止めたまま、二人のやり取りを見ていた。 「どうした、ナギ。飯が逃げるぞ」 「い、いえ。ただ……」  ナギは少し周囲を見回した。  飯処のあちこちの卓で、戦継者や雑兵たちが何かを囁き合っている。  笑い声よりも、低い声が多い。 「最近、噂が多いなって」  ナギの言葉に、レンとリツも耳を澄ませた。 「……南の街道で、行方知れずが出たって話だ」 「またかよ。先月も、宿場町の茶屋で働いてた娘が、急に消えたって」 「いや、それだけじゃないぞ。  昨日の夜、東の砦から戻った連中が言ってた。  『同じ橋を、一日のうちに二度渡った気がする』って」 「酒の飲み過ぎじゃねえのか」 「だったらいいんだがな……」  似たような話は、ここしばらく毎日のように耳に入ってきていた。  南の街道。  その向こうにある、かつて城があった無名の都市域の辺り。  そこを通る旅人が、ひとり、またひとりと消えたという話。  夜中に、誰も住んでいないはずの屋敷に灯がともっていたという話。  崩れた城門が、一瞬だけ元の姿で見えたという話。  どれも、疲れた舌からこぼれた噂にすぎない。  だが、どれも、方角だけは同じだった。 「……気味が悪いですね」  ナギが小声で言う。  リツは椀の縁に指をそっと添え、目を細めた。 「噂はいつだって気味が悪いものよ。  形がないから、余計に」 「形になったら、なったで厄介だけどな」  レンは肩を揺らして笑った。  だが、その笑いは少しだけ固い。 「まあ、俺たちの仕事は噂の数を数えることじゃねえ。  いざとなりゃ、噂の元を叩き斬るだけだ」 「……それが、人だったら?」  ナギの問いに、レンは一瞬だけ目を細めた。  リツが、代わりに答える。 「それでも斬る。  今さらだろう、ナギ」  失墜種。  かつて人だったもの。  異存者の影に引きずられ、姿も心も崩れたもの。  砦の戦継者にとって、それはとっくに知っている事実だった。  だからといって、斬る手を緩める理由にはならない。 「……はい」  ナギは、ぎゅっと箸を握りしめた。  その指先には、わずかな震えが宿っている。 ◇  昼食が終わるころ、砦の門近くで、短い角笛が鳴った。 「外の任、募る!」  伝令の声が響く。  門前に立つ隊士が、板札を掲げていた。  近隣の村の者が砦に駆け込み、助けを求めてきたのだという。  山裾の小さな集落の裏山に、失墜種が出た。  数は多くないが、夜ごと人や家畜が襲われ始めた。 「第五、出るぞ」  低く落ち着いた声が響く。  灰条ミナト。第五部隊隊長。  双剣を腰に差し、既に具足を着け終えている。  レンが槍を肩に担ぎ、ナギが慌てて立ち上がる。  リツも、柄に布を巻いた刀を確かめた。 「小さな任務だ。  だが、こういう積み重ねでしか砦は守れない」  ミナトは短く言い、門へ向かって歩き出した。  その背中を、第五の隊員たちが無言で追う。 ◇  砦から南へ半刻ほど行った山間に、小さな集落があった。  十数軒の家。 煙を上げるかまど。  段々畑に残る、去年の収穫の名残。  その一角で、村人たちが怯えた顔をしていた。 「ありがてえ……本当に来てくださったのか」  年老いた村長が、ミナトの前に頭を擦り付けるように下げた。  背の曲がり、手の皺。  この村で、どれだけの年月を過ごしてきたのかが、その姿から分かる。 「話を聞かせろ」  ミナトは簡潔に言った。  村長は震える声で語り始める。 「最初は、鶏でした。  朝、鶏小屋を覗いたら、一羽もいねえ。血だけべっとりと残ってて……  それから、井戸に、変な影が映るようになりました。  夜になると、山の方から、這うような音がして……」  ナギは村長の背後、山の方角を見た。  薄暗い木立が連なり、その奥には岩肌が露出している。 「人が消えたのは?」 「三日前です。  畑から帰ってこねえ若い者がいて。  探しに行ったら、畦道の途中に、血の跡だけが……」  言葉が途切れた。  村長の肩が震える。 「分かった」  ミナトは静かに頷き、第五の連中を振り返った。 「レン、前溜まり」 「おう」 「リツ、ナギ、お前たちは中程。  後ろ守りに二人付ける。  行きは静かに、帰りは騒がしく、だ」  短い指示で、全員がそれぞれの位置に散る。  村人たちの視線を背に受けながら、第五部隊は山道へと入っていった。 ◇  山の中は、昼だというのに薄暗かった。  木々の枝が重なり合い、空を遮っている。  土の上には枯れ葉が積もり、踏みしめるとしっとりとした音がした。 「……嫌な匂いがする」  レンが槍の柄で前方の草を払う。  鼻をつくのは、腐った肉と湿った土が混ざった匂い。  ナギは刀の柄に手を添え、周囲を見回した。  足元に、小さな足跡がいくつもついている。  人のものではない。  犬とも違う。爪の痕が深く、泥を抉っている。 「来ます」  リツが低く言った。  木々の間、地を這うような影が、いくつも蠢いていた。  失墜種。  異存者のアイン因子が暴走し、姿を変えたもの。  知性は低く、本能的にアイン因子を求めて襲いかかる。  目の前にいるのは、炎痕型と呼ばれる種だった。  焔の鱗を持ち、歩いた跡が焦土と化す。  その体から熱波が漂い、周囲の枯れ葉が焦げていく。  通常種。  だが、数は多い。 「構え」  ミナトの声と同時に、第五の隊員たちが半円を描くように陣形を取る。  レンが前に出て槍を構え、ナギがその斜め後ろ。  リツは一歩引いた位置で、刀を抜いた。  カサカサ、と、枯れ葉が焦げる音。  熱波が肌を焼く。  それが、じわじわと近づいてくる。 「近えな」  レンが槍先をわずかに下げた。  その瞬間、木陰から飛び出してきた影が一つ、槍に刺さる。 「おらっ!」  槍を引き、叩きつけるように振るう。  焔の鱗を持つ失墜種が、地面に叩きつけられ、火花を散らしながら崩れた。 「数を数えろ! 何体だ!」 「右から三、左に四!」  隊員の叫び。  ナギは迫ってきた一体の首を狙って刀を振るった。  刃が焔の鱗に当たり、熱い感触が腕に伝わる。 「ッ……!」  鱗の首が半ばまで切れ込み、失墜種がぐらりと揺れた。  ナギは追撃しようと踏み込んだ。  その足元を、別の影が走る。 「ナギ、足!」  レンの叫びに、ナギは咄嗟に跳び退いた。  直後、足元の枯れ葉を突き破って、長い腕を持つ別の失墜種が突き出してきた。  異型。  通常種がさらに変異し、腕だけが異常に長く伸び、先端が鋭く尖っている。  それが、槍のような速さでナギの足を狙ったのだ。 「っぶな……!」  間一髪でかわしたものの、足首の布が裂け、薄皮が血で滲んだ。  ナギは冷や汗をかきながら、異型と対峙した。  細い胴。  長い腕。  歪んだ顔の奥から、低い呻き声が漏れる。 「ナギ、下がれ! 一人で抱えるな!」  ミナトの声が飛ぶ。  だが、ナギの背中には村の姿があった。  山の向こうにいる、鶏を失い、人を失った村人たちの顔。 「……嫌です」  ナギは自分でも驚くほど強い声で答えた。  足を引き、腰を落とし、刀を構える。  異型が、再び腕を振りかぶった。  空気を切り裂く音とともに、槍のような腕がナギの胸元を狙う。  ナギは、その瞬間、頭の中で透真の言葉を思い出していた。  ――踏み込みの先にも、敵の踏み込みの先にも、必ず「届く一歩」がある。  腕が伸びる前。  異型の肩がわずかに引かれた瞬間。  そこが、踏み込みの始まり。 「――っ!」  ナギは自分の一歩を信じて踏み込んだ。  足を前に出すのではなく、腰を前に押し出す。  肩から腕へ、刀へと力が流れる。  刃が、異型の腕と胴の付け根を斜めに薙いだ。  焔の鱗が砕け、異型の腕が宙を舞う。  そのまま畳みかける。  もう一歩。  今度は肩ではなく、首の根元を狙う。  刀が鱗を断ち、異型の頭部がぐらりと傾いた。  呻き声が止み、体が崩れ落ちる。 「……やった」  ナギは思わず息を吐き出した。  その瞬間、背後から別の失墜種が飛びかかってくる。 「油断するな!」  ミナトの声と同時に、別の刃が横から走った。  レンの槍が風を切り、飛びかかってきた失墜種をまとめて弾き飛ばす。 「よくやったが、まだ戦いは終わってねえ!」 「は、はい!」  ナギは再び構え直した。  その横で、リツが静かに一歩前へ出る。 「前ばかり見るな。  後ろは、私が見る」  彼女は刀を構え、意識を集中させた。  その足元に、わずかな揺らぎが生じる。  護心流――結界展開。  リツの結界は、分厚く硬い。  まるでシェルターのように、仲間を包み込む形。  目には見えない壁が、彼女の周囲に広がった。  迫りくる通常種が、その見えない壁にぶつかり、一瞬動きを止める。  刃が触れたわけではない。  だが、結界に阻まれ、勢いを削がれた失墜種は、その場で震え続ける。 「今!」  リツの声に、後ろにいた隊員が飛び出し、その首を一刀のもとに斬り落とした。 「さすがだな、リツ!」 「まだ、これくらいなら」  リツは短く答え、息を整える。  ほんの少しだけ、その肩が震えた。  結界を張るたび、神経に負担がかかる。  だが、そのことを口に出すことはない。 ◇  数刻後、山は静かになっていた。  失墜種の残骸が幾つも地面に転がっている。  焔の鱗は残り火とともに土に埋められ、木々に付着した黒い痕は、水で洗い流された。 「全員、生きてるか」  ミナトの問いに、第五の隊員たちがそれぞれ声を上げる。  掠り傷はあっても、致命傷はない。 「……ナギ」 「はい」 「よくやった」  ミナトが短くそう言うと、ナギは目を丸くした。 「お前の一歩は、少しだけ届き始めている」 「ありがとうございます!」  ナギは深く頭を下げ、息を吐き出した。  足首の痛みがようやく意識に上ってくる。  レンが、そんなナギの背中を軽く叩いた。 「帰ったら酒だな」 「ぼく、まだ飲めませんよ」 「じゃあ、汁を多めにしてもらえ。  それで我慢しろ」  笑い声が、山の空気を少しだけ軽くした。 ◇  村に戻ると、村人たちが待っていた。  山の向こうから帰ってくる第五の姿を見つけるなり、泣きながら駆け寄ってくる。 「本当に……本当に、ありがとうございました!」  村長が、ミナトの足元に額を打ち付ける勢いで頭を下げた。  その後ろで、年端もいかぬ子どもが、第五の武具を見つめている。 「おじちゃんたち、怪物やっつけたの?」  子どもの問いに、レンが笑った。 「ああ。山の中の悪いのは、当分出てこれねえ」 「すごい!」  無邪気な声。  その声を聞きながら、ナギは自分の手を見つめた。  まだ震えは残っている。  だが、その手で守れた命が、目の前にある。  ――これが、戦うということか。  自分の恐怖と、他人の恐怖。  二つを秤にかけて、それでも前に出た一歩の重さ。  ナギは、その重さを胸の内に沈めた。 ◇  砦に戻るころには、日が傾き始めていた。  門の上から見張りが声を上げる。 「第五、帰還!」  門が開き、土煙を上げながら第五の隊員たちが中へ入る。  脇を通り過ぎる兵たちが、ちらりと視線を送る。 「どうだった?」 「今回はまだ、山の獣が変じたようなもんだ。  だが、最近は山だけじゃねえって話だ」 「南の方だろう? 俺も聞いた」  戦継者たちの会話は、自然と噂へと移っていく。  南の街道。  無名の都市域。  人が消え、道がねじれる話。  ミナトはそれを聞きながら、ふと視線を上げた。  砦の一番高い見張り台に、黒い影が立っている。 「頭領」  彼は小さく呟き、レンたちに解散を命じてから、見張り台へ向かった。 ◇  見張り台の上。  灰色の空の下、葦原透真は静かに地平線を眺めていた。 「戻ったか、ミナト」 「はい。  山の村の件は片付きました」 「そうか」  透真はそれ以上問わない。  ミナトもまた、それ以上説明しなかった。  彼らの間では、それで十分だった。 「村の者は?」 「感謝していました。  山の中にいたのは、通常種がほとんど。異型は一体きり」 「……まだ、か」  透真は低く呟いた。  ミナトが首を傾げる。 「何か、気になることが?」 「噂だ」  透真は視線を遠くの山々から、南の方角へ移した。 「南の街道。  無名の都市域の辺りで、人が消える話が増えている。  似た話が、別々の砦から届いている」 「……村で聞いた話とも、重なりますね」 「噂は、いつも先に届く」  透真は目を細めた。 「失墜種が増えれば、そのうちこの砦の前にも顔を出す。  異存者が動けば、その影が必ずどこかに現れる」  風が、砦の旗を揺らした。  灰色の雲が流れ、わずかに薄日が射す。 「まだ、名はない。  だが、何かが南で膨らみつつある」  透真の声は、いつもと同じように穏やかだった。  それでも、ミナトはその底に、かすかな緊張を感じ取る。 「その『何か』が名を持つ前に、手を打たねばならない。  名を持ってしまえば、それはもう容易には倒れない」 「……その役を、俺たちが?」 「まだ決めてはいない」  透真は、そう言って口を閉ざした。  砦の下では、第五の隊員たちが武具を片付け、傷の手当てを受けている。  ナギは足首の傷に包帯を巻かれながら、遠くの空を見上げた。  リツは刀を布で拭き、柄に残る自分の手の跡を見つめていた。  レンは、いつものように冗談を飛ばしながら、仲間の肩を叩いて回っていた。  ――この日、南から届いていたのは、まだ形のない噂だけだった。  だが、その噂がやがて一つの名を持つことになる。  始祖級異存者。  刻界ノ男。  その名が砦に届くまで、もうそう長くはかからない。