第12章 失墜種、遊戯の刻 II ― 統率の陣  戦場に、線が増えていった。  土の上。  血の上。  失墜種の骨の上。  折れた槍と、砕けた盾の隙間。  誰の目にも見えないはずのそれが、ナギには「気配」として分かった。  足を一歩出せば、そこに何かが「待っている」感覚。  刃を振り下ろせば、必ず何かを斬り損ねる予感。 「……足が、勝手に止まる」  ナギは歯を噛んだ。  目の前では、炎痕型が異存者の胸を喰い破っている。  その背に、自分の斬撃を叩き込みたい。  だが、踏み込む一歩が出ない。  出した瞬間、その足を何かに撃ち抜かれる気がしてならない。 「それでいい」  冷たい声が、背後から落ちてきた。 「そこは、出れば死ぬ位置だ」  振り返ると、そこにアークレオンがいた。  いつの間にか、ナギたちのすぐ後ろに立っている。  足元には、相変わらず無数の細い線がのたうっていた。  彼は、そのうちの一本を指先で摘み上げた。 「ほら」  摘んだ線が、空気の中に持ち上げられる。  その端は、失墜種の群れへと繋がっている。 「君が一歩出るとね。  この炎痕型がそっちを向く。  この氷痕型が足場を凍らせる。  この影纏型が……君の首を狙う」  アークレオンは、淡々と説明した。  指先の線が、遠くの失墜種たちへと伸びている。  それは「統率」の線だった。 「僕が命じれば、失墜種は君を囲む。  君が斬る前に、君が死ぬ」 「ふざけるな――!」  ナギが怒鳴るより早く、別の刃が動いた。  アークレオンの背後から、一本の槍が突き込まれる。  レンだ。 「お前の統率なんか知らん!  俺たちは、自分で結果を決める!」  槍の穂先が、アークレオンの背を貫く――はず、だった。  ガキン、と硬い音がした。  槍先は、確かに背に届いていた。  だが、その直前で「別の動き」が滑り込んだ。  レンの槍が、わずかにずれる。  失墜種の一体が、アークレオンを守るように割り込んだのだ。 「っ――」  レンは腕に痺れを感じ、槍を引き戻した。 「惜しいね」  アークレオンは、ゆっくりと振り返った。  彼を守った失墜種が、槍に貫かれて崩れ落ちる。  だが、アークレオン本人には傷一つない。 「今のは、"僕を守れ"と命じた」  彼の足元を見ると、いくつもの線が失墜種へと伸びていた。 「君の刺突は見事だったよ。  だからこそ、僕の駒に受けさせた」 「理由になってねえ!」  レンが吠えた瞬間、アークレオンの姿が掻き消えた。  消えたのではない。  一歩踏み込んだだけだ。  その一歩に合わせて、周囲の失墜種が一斉に動いた。  視界の端で、戦継者の一人が炎痕型に囲まれる。  そこへ氷痕型が足場を凍らせる。  別の地点で、異存者が失墜種に突き飛ばされる。  だが、その失墜種はすぐに戦継者の方へ向きを変える。  ミナトの隊の一画で、兵が一人、結界からはみ出す。  その瞬間を待っていたかのように、影纏型の腕が伸びる。  全部、「そうなるように」統率されている。 「……これで、どうだ」  アークレオンは、右手を振った。  地面を走る線が、いくつか束になって持ち上がる。  束になった線は、失墜種の群れへと命令を伝えていく。 ◇ 「頭領!」  ミナトが叫ぶ。  透真の周囲で、失墜種が一斉に集まり始めていた。  一体一体は弱い。  だが、その数が多すぎる。 「その一歩は――」 「知っている」  透真は短く答えた。  足元の結界が、静かに震える。  彼の結界は、今も戦場中の攻撃を束ねている。  結界の内側にいる兵たちの斬撃、槍撃、矢。  それらすべてが、透真の一歩に合わせて「同じ刻」に重なるよう調整されている。  本来なら、それで敵を削り切れる。  だが今、その周囲を、アークレオンが統率した失墜種が囲んでいる。 「……来いよ、統率者」  透真は、小さく息を吐いた。 「お前の統率と、俺の結界、どちらがしつこいか、試そう」  片刃のまっすぐな剣を構える。  結界の内側の兵たちが、息を揃えた。 「冑なき軍――」  足が、前に出る。 「――踏み込む刻だ」  ゼロ距離。  透真の踏み込みに合わせ、結界の内側の全員の攻撃が、ひとつの刻に収束した。  炎痕型の脇腹を狙う斬撃。  異存者の首を狙う槍。  飛翔する亜種の翼を狙う矢。  それら全部の「命中」が、透真の剣筋に重ねられる。  世界が一瞬、蒼く染まった。  次の瞬間――。 「……避けられたね」  アークレオンの声が、結界の内側に滑り込んだ。  透真の剣は確かに振り下ろされていた。  その軌道は、炎痕型の首を完璧に捉えているはずだった。  だが、刃は空を切る。  炎痕型が、アークレオンの「命令」で一歩退いていた。  同じ刻、同じ地点に重なるはずだった攻撃の結果が、全部「半歩だけ外れる」ように統率されていたのだ。  槍は首を外し、肩を掠める。  矢は翼の骨を外し、風だけ裂く。  透真の刃は、炎痕型の喉を斬り損ね、頬を浅く裂いただけだった。 「……っ!」  結界の内側で、誰かが呻いた。  これだけの準備と犠牲を払って束ねた一撃が、ほとんど意味を為さなかった。  アークレオンは、つまらなそうでも楽しそうでもない、無機質な声で言った。 「失墜種を"逃げろ"と命じた。  君は、その動きを計算に入れていなかった」 「計算に入れる必要がなかった」  透真が短く返す。 「失墜種がここまで統率されるとは思わなかったからな」 「統率は、僕の専売特許だ。  失墜種は本来、知性が低い。  だからこそ、単純な命令には素直だ」  アークレオンが、もう一本、線を摘み上げる。  今度は、ミナトの周囲の失墜種へと伸びていた。 「たとえば、この隊長を囲んで……殺せ」 「舐めるな」  ミナトは即座に結界を踏み替えた。  足元に、小さな結界が二つ重なる。  ひとつは今いる地点。  もうひとつは、少し離れた瓦礫の陰。  ミナトは、その二つを繋いだ。 「二重結界――結線」  体を動かした瞬間、視界が揺れる。  自分の身体の位置が、結界の中で「すり替わる」。  アークレオンが統率した失墜種たちが殺到したのは、元の足場の方だった。  そこには誰もいない。  失墜種の爪が虚空を引き裂く。  氷の棘が、誰もいない地面を凍らせる。 「……なるほど」  アークレオンが、初めて声に興味を滲ませた。 「二か所の場を繋ぐ結界。  統率の網をすり抜けることは出来るか」 「お前の統率は、俺たちの結界の外だ」  ミナトが汗を拭いもせずに言う。 「結界の中で決めた結果くらい、自分たちで守る」  肺が燃えるように痛い。  二重結界の負荷が、骨の内側から軋ませる。 「隊長!」  ナギが叫ぶ。 「今の……どうなったんですか!」 「簡単だ」  ミナトは笑った。 「俺の結界の中だけ、別の地図を描いた。  アークレオンの統率は"こっち"を狙わせていたが、俺たちが立っていたのは"あっち"だ。  死ぬの は地面だけで、誰もいない」 「……そんな、無茶を」 「無茶じゃなきゃ、上位相手に足掻けない」 ◇  戦場の別の場所では、ヴァルディスが「火」をつけられていた。  透真とのやり取りに興味を示したのか、彼は視線を少しだけ鋭くする。 「今の、いいね」  ヴァルディスは、透真の結界とアークレオンの統率がぶつかる地点を眺めて言った。 「場と場の綱引き。  統率と結界の喧嘩。  戦場として、とても綺麗だ」 「なら、そこを壊すのはやめたらどうだ」  横から声が飛ぶ。  護心流軍の別働隊の一人が、ヴァルディスに向かって突撃していた。  槍を構え、その穂先に結界を纏わせている。 「……やめないよ」  ヴァルディスは、その槍を片手で掴んだ。  槍の軌道に沿って、ヴァルディスが片腕を上げる。  槍の穂先が黒いロングコートの袖を裂いたが、その奥にある肉体には届かない。 「君たちが、そこまでして作った場だからこそ――」  ヴァルディスは、槍を握ったまま軽く振った。  兵の身体が、槍ごと空中を舞う。  それを、さらに地面へ叩きつけた。  骨の砕ける音が響く。  結界が消える。 「壊す価値がある」  彼は足元の地面を見下ろした。  そこには、護心流軍が張った結界が重なっている。  退路を確保するための道。  負傷者を下げるための通路。 「こういう"逃げ道"があると、戦場は長く続く。  それはそれで好きなんだけど――」  ヴァルディスは、指先を地面に向けた。 「今日は、短く燃えるほうが似合うかな」  地面を、力が掬い上げる。  土と石と、結界の境界線。  退路に使われていた狭い通路が、まるごと「無」に帰した。  そこを走っていた兵たちの下半身だけが残り、上半身は跡形もなく消える。  逆に、上半身だけが転がり落ち、足だけが見えないどこかに持っていかれる。  悲鳴を上げる暇もない。  筋肉が、骨が、内臓が、一瞬で断ち切られる。 「うあああああああ――!」  退路だと思っていた通路が、突然消えた。  その端にいた若い兵が、宙に投げ出される。  下では、別種の巨躯が口を開けて待っていた。  噛み砕かれる。  鎧ごと。  骨ごと。 「場の形を壊すとね」  ヴァルディスは、落ちていく兵の残骸を眺めながら呟く。 「人間は、死に方が変わる。  それが、面白い」  彼の足元では、まだ結界が必死に広がろうとしていた。  別の隊が、新たな退路を作ろうとしている。 「何度でも作るがいいさ。  その度に、僕が壊す」  ヴァルディスは、楽しげに片手を振った。 ◇  そのさらに上空では、黒い翼が羽ばたいていた。  イサリオの背から伸びたそれは、羽根でも皮膜でもない。  奪った記憶から引き出した「飛行」の力が、翼の形をとって揺れている。  翼の端が、触れたものを少しだけ「鈍らせる」。  矢がその中を通ると、速度が半分になる。  投げられた槍が通ると、軌道が重くたわむ。 「雷ばっかだと、さすがに飽きるからさ」  イサリオは、翼をひと振りした。  地上から伸びてきた矢が、その翼に触れ、ぼとりと落ちる。  矢じりが鈍くなり、土に刺さらない。 「ほら、落ちた。  がんばって射ってるのにねえ」  彼は肩をすくめ、右腕を見下ろした。  さっきまで人の腕だったそれが、いつの間にか一本の長い刃になっている。  奪った記憶から引き出した「刃の腕」。 「こっちは、"普通の刃"」  そう言って、イサリオは降りた。  雷ではない。  翼で空気を切り裂きながら、一気に高度を下げる。  下には、護心流の結界の上に並んだ戦継者たちがいた。  槍を突き上げ、剣を構え、弓を番えた列。 「来るぞ!!」  レンの怒鳴り声が飛ぶ。 「雷じゃない! "本体"だ!」  イサリオの影が、結界の上を滑る。  翼が、護心流の結界の境界に触れた。  結界の縁が、じゅ、と音を立てて削れる。  護心流は、異存者の技術に干渉する術式だ。  だが、イサリオの翼は「術」とは違う。  奪った記憶そのもの。  結界の効果範囲が一瞬揺らぎ、その隙間にイサリオの身体が潜り込む。 「よっ」  軽い声とともに、刃の腕が振るわれた。  一列目の兵の胴が、まとめて浮いた。  腰の位置で、きれいに切断される。  上半身が前に倒れ、下半身が結界の上に立ち尽くす。  血が噴き出し、結界の線を赤く染める。 「……っ!」  レンが槍を突き出した。  刃の腕と槍がぶつかる。  火花が散る。  雷ではない。  純粋な金属と金属の衝突音。 「お?」  イサリオが目を丸くする。 「生き残ってる。  さっきあんなに焼いたのに、まだ動くんだ?」 「燃え残りはしぶといんだよ!」  レンの腕が悲鳴を上げる。  さっきの雷の傷が、槍を支えるたびに焼ける。  それでも、一歩も下がらない。  イサリオの刃が、何度も槍を叩く。  そのたびに、レンの足元の結界が揺れる。  背後のナギたちが、結界の中で体勢を崩さぬよう必死に耐える。 「雷だけじゃなく、刃も一級品かよ……!」  ナギが舌打ちした。  イサリオは、楽しげに笑う。 「雷は"遊び"。  これも"遊び"。  本気なんて、めったにやらないよ」  刃の腕が、槍を滑る。  レンの頬に一筋の血が走る。  そこへ、別方向から矢が飛んだ。  ナギの背後の弓兵が放ったものだ。  矢じりには、結界の薄膜がまとわりついている。  イサリオの翼を貫くように計算された軌道。 「おしい」  翼が、わずかに広がった。  矢が翼に触れた瞬間、速度が鈍る。  そのまま、イサリオの顔の横をかすめ、遠くへ落ちた。 「でも、好き。  そうやって、僕に"届こうとする"の」  イサリオは、刃の腕をくるりと回し、レンの槍を外側へはね飛ばした。  体勢が崩れたレンの胸元に、雷が一本落ちる。  直撃はしない。  かすめただけだ。  それでも、焼けた胸甲の下から血が噴き出した。 「隊長!!」  ナギが叫ぶ。  レンは膝をつきかけ――リツの「シェルター型結界」が、その肩を支えた。 「……こっちは、退かない番」  リツの声は、震えていなかった。  彼女の足元の結界は、ずっしりと重い。  そこを中心に、地面そのものが「動かなくなる」。  雷が落ちても。  場が抉られても。  失墜種が統率されても。  少なくとも、この一歩だけは、現在に縫いとめる。 「ここまで、です」  リツは、イサリオを見上げた。 「これ以上、踏み込ませません」 「ほんと?」  イサリオは、面白そうに首を傾げた。 「じゃあ、今度は――」  彼が翼を打ち振ろうとした瞬間、雷鳴とは別の「軋む音」が戦場を走った。 ◇  刻界ノ男のいる方向から、空間がきしんだ。  誰の目にも見えない「檻」の骨組みが、少しずつ組み上がっていく音。  刻が、細かく砕かれていく気配。  アークレオンが、そこで指を止めた。  足元に集めた統率の線が、一斉に震える。  彼の視線が、遠くの中心へ向く。 「……始めるのか」 「そうみたいだねえ」  イサリオが、雷を止めた。  翼が、ぱさりと小さくなる。  ヴァルディスも、地面を消す手を止めた。  崩れかけていた退路が、そのままの形で固まる。  刻界ノ男が、本気で檻を閉じようとしている。  この戦場の一部を、まるごと切り取るつもりだ。 「そろそろ、あいつの番ってことか」  ヴァルディスが言った。 「場を壊すのは、僕の仕事だけどさ。  刻を壊すのは、あいつの趣味だ」 「失墜種を統率するのも、刻の中では難しくなる」  アークレオンが淡々と頷く。 「僕の統率と、あいつの刻。  重ねすぎると、戦場が"つまらなく"なる」 「ねえ、つまらないの嫌だもんね」  イサリオが笑った。 「ちょっと引こうか。  このままだと、人間、全滅しちゃう」 「それは、それで美しいけど」  ヴァルディスが肩をすくめる。 「残しておかないと、次の戦場がない。  冑なき軍がいない戦場なんて、つまらないよ」 「――透真」  アークレオンが、初めて透真の名を呼んだ。  彼は静かに言う。 「君の結界は、よくやっている。  ここまで残った時点で、充分"結果"は示した」 「勝手に締めるな」  透真が結界の中から睨み返す。 「ここからが本番だ」 「そうだね。  だから、僕たちは退く」  アークレオンは、足元の線を少しだけ引き絞った。 「この戦場の"統率"は、一旦ここまで。  あとは、刻界と――君たちの刻の問題だ」  彼は、線を一本残して背を向けた。  その線は、遠く別の戦場へと伸びている。 「別の場所で、面白い結果が待っている。  そっちも見に行かないと」 「僕は――」  イサリオが、空を見上げた。  刻界ノ男の周囲で、檻の骨組みが白く光り始めている。 「こっちの"檻"の中も気になるけど……」  彼は、雷を一本だけ落とした。  戦継者でも異存者でも失墜種でもない、空の地点へ。  そこにあったのは、先行調査隊の折れた旗だった。 「今日は、あそこで終わりにしとく」  イサリオは、レンたちを見下ろして笑った。 「燃え残りの人間。  まだ燃え足りない顔してるよ。  また今度、続きをしよう」  翼が大きく広がる。  彼の身体は光に包まれ、そのまま遠くの空へ消えた。 「僕も、場の続きを見に行くよ」  ヴァルディスは、透真に片手を挙げた。 「今日の壊れ方は、なかなかだった。  次は、もっと深く壊そう」  彼の足元で、地面が一度だけ沈む。  そのまま、彼の姿は戦場から薄れていった。 ◇  三体が一歩退いた後に残ったのは――壊れかけた結界と、死体と、息も絶え絶えの冑なき軍だった。  雷が止み、統率の線が薄くなり、場を消す力が消える。  代わりに、刻界ノ男の気配が濃くなる。  刻の檻が、ゆっくりと閉じようとしていた。 「……今だ」  透真が言った。  ミナトが頷く。  レンは焼けた胸を押さえながら槍を握る。  ナギは震える足に力を込める。  リツは、足元の重さをさらに深く沈める。 「ここまでこじ開けた道を、無駄にはしない」  透真の結界が、狭く、鋭くなった。  護心流軍の残存戦力の中から、ひとつの隊が前に出る。  紅い紋を刻んだ隊旗が翻る。  紅鱗隊。  刻界ノ男の檻の内側へ踏み込むための、最後の矛。 「全軍、紅鱗を通せ!」  ミナトの声が枯れた喉から絞り出される。 「退く者は退け!  ここから先は――」  白く軋む檻の入口へ。  紅鱗隊が踏み込んだ。