第2章 火を囲む者たち ― 第五部隊の日常  火は、人を集める。  戦の時代でも、それは変わらない。  焚き火のまわりには、いつも誰かが座っている。  昼の鍛錬で汗を流した者。  外任から戻って泥を落とした者。  ただ、静かな炎を眺めたいだけの者。  そこに、第五部隊もいた。 ◇  砦の一角。  古い櫓の影になった小さな庭に、石を円に積んで作られた焚き火場がある。  日が暮れるころになると、そこに火が入る。 「お前ら、遠巻きにするな。もっと寄れ。  火から離れてると、心まで冷えるぞ」  熾道レンが、火ばさみ片手に声を張り上げた。  厚手の羽織の袖をまくり、焦げた木片をつつく。 「レンさんが近づきすぎなんです。  それ以上行くと、顔まで炭になりますよ」  芹沢ナギが苦笑しながら言う。  その足首には、まだ薄く包帯が巻かれていた。  昨日の山村での任務で負った傷だ。 「炭顔のほうが貫禄あるだろ」 「貫禄と黒焦げは違います」  別の隊員が横から口を挟み、笑いが起きる。  焚き火の上には、鉄串に刺した干し肉と芋が並べられていた。  脂が落ちるたび、火がぱちぱちと跳ねる。 「ナギ、足はどうだ」  少し離れた場所で、刀を膝に置いていた女が、焚き火越しに尋ねた。  葦原リツ。第五部隊の要。  炎に照らされた頬に、昼間の疲れが薄く影を落としている。 「もう大丈夫です。  走れって言われたら、ちゃんと走れます」 「ほんとか? 『痛いので後ろにいます』とか言うなよ」  レンがニヤニヤしながら口を挟む。  ナギは慌てて首を振った。 「言いません!」 「ならいい」  リツは短く頷き、膝の上の刀に視線を落とした。  布で丁寧に刃を拭き、指先で軽く撫でる。  彼女の視線は、刃そのものではなく、その重さを見つめているようだった。  斬ったときに伝わる感触。  敵を止める結界の張り方。  自分の神経に返ってくる痛み。  護心流――結界を張り、敵を止め、仲間を守る技。  リツの結界は分厚く硬い。シェルターのように仲間を包み込む。  その力を振るうたび、神経に負担がかかる。  今はまだ、その名は口には出さない。  だが、リツの中ではすでに、それは一つの形となって息づいていた。 「リツさん、あの……」  ナギが迷うように声をかける。  リツは顔を上げた。 「何?」 「昨日の山で、あの……背中を守ってくれて、ありがとうございました」 「昨日だけじゃないぞ」  レンがすかさず口を挟む。 「お前の背中は、だいたいリツと俺が守ってんだ。  礼なら一升樽くらい用意しろ」 「一升樽なんて、どこから調達するんですか……」 「いつか討伐の褒美でもらってこいよ。  始祖級の首の一つも持って帰れば、酒くらい出るだろ」 「そんな簡単に言わないでください」  ナギは思わず笑った。  その笑い声が、焚き火の火の粉と一緒に夜空へ昇っていく。 「礼なら、戦場で返して」  リツが静かに言った。 「私が前を切り開いたら、お前がそこを走る。  私が後ろを守ったら、お前は振り返らずに進む。  それだけやってくれればいい」 「……はい」  ナギは真剣な顔で頷いた。  レンが、わざとらしく咳払いする。 「おいおい、真面目な話は一人一升までって決まりだぞ」 「誰が決めたんですか、それ」 「今決めた」  焚き火のまわりで笑いが弾ける。  炎の色が顔に映り、みな少しだけ赤く見えた。 ◇  あくる朝。  砦の門の前に、第五部隊の面々が集まっていた。 「南の見回りだ」  灰条ミナトが短く告げる。  目は冗談を許さない色をしているが、声は落ち着いていた。 「昨夜、南の村から使いが来た。  街道沿いの林で、うろつく影を見たと」 「失墜種ですか」  ナギが問い、ミナトが頷く。 「おそらくは通常種。  だが、『夜に山の向こうから人の声が聞こえた』とも言っている」  その一言に、わずかなざわめきが起きた。  失墜種の声は、時に人の声に似る。  助けを求める声。  呼ぶ声。  泣き声。  それを知っている者たちは、自然と表情を引き締めた。 「任の重さは、昨日の山村と同じだ。  だが、道は街道に近い。  人の往来もある。  手早く片をつける」  ミナトは第五を見渡した。 「いつも通り、前はレン。  中はナギとリツ。  後ろに二人付ける。  行きは静かに、帰りは騒がしく」 「了解!」  レンが声を上げ、槍を肩に担ぐ。  ナギは深呼吸をし、足首の包帯を確かめた。  リツは無言で頷き、柄に巻いた布を締め直した。  門が開き、土の匂いと朝の冷たい風が流れ込んでくる。  第五部隊は、街道へ向けて歩き出した。 ◇  砦から南へ伸びる街道は、かつて賑わった道だった。  今は、ところどころ石畳が剥がれ、雑草が顔を出している。  それでも、人と物はこの道を行き来する。  荷車を押す行商人、遠くの砦へ向かう兵、家をなくした者たち。 「お、第五じゃねえか」  道端の茶屋の前で、顔なじみの男が手を振った。  粗末な看板に墨で書かれた「茶」の字。  中からは、薄い茶と焼いた団子の匂いが漂ってくる。 「今日は寄らねえのか?」 「帰りに寄る。団子を残しておけ」  レンが笑って答える。  茶屋の男は肩をすくめた。 「残るといいがなあ。  この頃は、南からの客が減ってきててよ。  来た奴はみんな、変な話ばっかり置いていきやがる」 「変な話?」  ナギが足を止めかける。  ミナトが振り向かずに言った。 「後で聞け。  まずは任だ」 「はい」  ふたたび歩き出しながらも、ナギの耳には茶屋の男のぼやきが残っていた。  ――南からの客が減ってきてる。  ――来た奴は、変な話ばかり。  噂は、火の粉のように空中を漂い、いずれどこかに落ちる。  第五の足元にも、確実に落ち始めていた。 ◇  街道から少し外れた林に入ると、空気が変わった。  鳥の声が少なくなり、風の音ばかりが耳につく。  地面には、割れた陶器や、朽ちた木箱の破片が散らばっていた。 「人の荷か」  レンが槍の石突きで木箱の名残を突いた。  中身は空っぽ。  あったはずの物は、どこかへ消えている。 「痕は新しい。  一月も経ってないな」  ミナトがしゃがみ込み、土を指でなぞった。  靴の跡と、何かが引きずられたような跡。  その上に、爪の跡が重なっている。 「嫌な組み合わせですね」  リツが小さく言う。  ナギは無意識に腰の刀に手をやった。 「構えを崩すな。  森の中では、いつ始まってもおかしくない」  ミナトの声が、空気を締める。  第五の隊員たちは自然と間隔を狭め、半円を描くように進んだ。  林の奥から、ぴちゃり、と、水音のようなものが聞こえた。  だが、ここに水場はない。 「……聞こえましたか」 「ああ」  レンが、槍をわずかに低く構えた。  次の瞬間、茂みの陰から何かが飛び出してきた。  失墜種。  異存者のアイン因子が暴走し、姿を変えたもの。  目の前にいるのは、氷痕型だった。  全身から冷気をまとい、触れたものを凍結させる。  通常種。  だが、数は多い。 「前!」  レンの叫び。  槍が突き出され、最初の一体が串刺しになる。  だが、その後ろから、同じような影が次々と溢れ出してきた。 「数が多い!」 「右、五! 左、四!」 「後ろにも三!」  瞬く間に、林の中が冷気と唸り声で満たされた。  第五は半円の陣形を取ったまま、背中合わせに立つ。 「囲まれかけてるな」  レンが笑う。  笑いだが、目は鋭い。 「笑い事じゃありません!」  ナギが叫び返しながら、一体の首を狙って刀を振る。  氷の爪が頬を掠め、冷たい痛みが走る。 「ナギ、深追いするな! 一歩で落とせ!」 「は、はい!」  周囲に視線を走らせると、どこを見ても失墜種の影だ。  林の木々の間を、氷の体が這い回る。  足元の草がすぐに霜で白くなっていく。 「ミナト!」  後方を見ていた隊員の一人が声を上げた。 「退路の方にも出てきてます!」  振り返れば、街道に戻るための細い道にも、失墜種がすでに現れている。  数は前方ほどではないが、道を塞ぐには十分だった。 「前後を切られたか」  ミナトは一瞬で状況を判断した。  ここで無理に押し通れば、被害が出る。  だが、このまま留まれば、じりじりと削られていくだけだ。 「リツ」 「はい」 「退路を開ける。  前は俺とレンが受ける。  お前は後ろを一度で止めろ」  リツは短く頷いた。  呼吸を整え、足の位置を確かめ、刀を握り直す。  胸の奥で、自分の心臓の音が重く響いていた。  神経の奥がじんと痺れるような感覚。  それを、結界へと変える。 「ナギ」 「はい!」 「私が合図したら、振り返らずに走れ。  私の後ろは見ないこと」 「……分かりました」  ナギは唇を噛んだ。  それでも、目は逸らさない。 ◇  後方。  細い道を塞ぐように、失墜種の群れがじりじりと近づいてくる。  氷の体から冷気が漂い、草木が凍っていく。  リツは、彼らとの距離を測った。  一歩。二歩。  三歩目で届く距離。  刀を腰の位置に構え、低く息を吐く。  ――ここだ。  護心流――結界展開。  リツの足元から、目に見えない力が広がった。  分厚く、硬い。シェルターのような結界。  その結界が、失墜種の群れを阻む壁となる。  一歩。  地面が、わずかに軋む。  彼女の意思が、結界の形となって周囲を包み込む。  最前列の氷痕型が、見えない壁にぶつかり、動きを止めた。  足が地面に縫い付けられたように動かない。  その後ろにいた連中も、押し寄せる勢いごと止められる。  列が、固まった。  まるで、氷の彫刻のように。 「今だ!」  ミナトの声が飛ぶ。  ナギを先頭に、第五の隊員たちが後方へと駆ける。  リツの結界が作り出した「見えない壁」。  その横を、彼らは一気に駆け抜けた。  背後で、氷の軋む音が再び動き出す。  だが、その一瞬の止まりが、十分な隙になった。 「リツ!」  最後尾を駆けていたレンが、リツの腕を掴んで引き寄せた。  彼女の顔は青白く、こめかみに汗が滲んでいる。 「大丈夫か」 「……まだ、動ける」  リツは淡々と言った。  神経がじんじんと痺れている。  だが、そのことを口に出すことはない。 「上等だ。  生きて帰れば、休みはいくらでも取れる」 「そうですね」  微かに笑みが浮かんだ。  その笑みを見届けてから、レンは彼女を庇うように前へ出る。 「ミナト! 退路、確保!」 「よし、街道まで一気に出る!  振り返るな!」  叫びとともに、第五は林を駆け抜けた。  背後から、失墜種の唸り声と足音が追ってくる。  だが、結界で阻まれた一帯は、しばらくの間、敵の侵入を許さない。  林を抜け、石畳の街道が見えたとき、ナギは思わず声を上げた。 「っ……!」  足元の硬さが、こんなにも心強いと感じたのは初めてだった。 ◇  砦に戻ったとき、第五の面々は疲れ切っていた。  傷は浅い。  だが、心のほうが消耗している。 「全員、大きな怪我はなし。  リツは医師のところへ行け」 「分かっています」  リツは淡々と答えた。  こめかみを押さえる手がわずかに震えている。 「ナギ」 「はい」 「退路の確保が間に合わなかったら、お前が最初に折れていただろう」 「……はい」 「次は、あの結界が来る前に動け」 「やってみます」  ミナトはそれ以上何も言わず、第五を解散させた。 「団子、食うか?」  門のあたりで、レンがナギの肩を叩いた。  さっきすれ違った茶屋の男が、砦まで串を届けに来ていた。 「え、買ってきたんですか?」 「約束したからな。  俺は約束は守る男だ」 「借金は守らないくせに」  通りかかった別の隊員が呟き、周囲から笑いが起こる。  レンは「聞こえねえ」と言いながら、団子の串をナギに押し付けた。 「食え。  怖かった分だけ、甘いものはうまい」 「……はい」  ナギは団子を一つ口に運んだ。  焼けた餅の香りと、薄い醤油の味。  それは戦の味ではなく、確かに日常の味だった。 ◇  その日の夕刻。  砦の中央の広場に、急きょ上層からの呼び出しがかかった。 「各部隊長、頭領より伝達あり。  隊士の一部も同行せよ」  伝令の声に、ミナトは第五の中から数名を選んだ。  レンとリツ、そしてナギもその中に含まれていた。 「え、俺たちも行くんですか」 「上が、お前らの顔も見たいんだろう」  レンが肩をすくめる。  ナギは緊張で喉を鳴らした。  砦の大きな建物――元は城の一部だったという古い屋敷――その広間に、既にいくつかの部隊長たちが集まっていた。  板張りの床。  柱には古い刀傷が刻まれている。  ほどなくして、葦原透真が姿を現した。  その背筋はまっすぐで、歩みには迷いがない。 「集まってくれてありがとう」  透真の声が広間に落ちる。  ざわめきが消えた。 「用件は、一つだ。  南――灰灯廃都の周辺で、異存者始祖級と見られる影が動いているという、報が入った」  灰灯廃都。  かつて国家の中心だった城と城下町が、そのまま灰に埋もれたような廃墟。  いまや、正式な地図からも名が消えた場所。  その名が、久しぶりに口にされた。  広間の空気が、重く沈む。 「確かなものではない。  いくつもの砦からの伝令、行商人の噂、逃げ出した者の言葉。  それらを繋ぎ合わせた結果だ」  透真は、しかし曖昧な言葉で逃げようとはしなかった。 「だが、こうも多くの噂が同じ場所を指すのなら、それはもう噂ではない。  煙がこれだけ上がっている以上、そこには必ず火がある」  レンが、無意識にナギの肩を握った。  ナギの喉がごくりと鳴る。 「始祖級。  異存者の中でも、質も格も桁違いの存在だ」  その言葉の重さを、ここにいる者たちはよく知っている。  失墜種の群れが砦を飲み込む光景。  異存者一体が一つの城を消し飛ばす話。  その、さらに上。 「まだ、討伐を命じる段ではない。  まずは確かめる必要がある。  だが、いずれは誰かが入り、誰かが斬らねばならない」  透真は視線を巡らせた。  ミナトと目が合う。  その少し後ろで、レンとリツ、ナギが緊張した面持ちで立っている。 「今回の呼び出しは、今この砦にどれだけの刃があり、その刃がどれだけ迷いなく前に出られるかを見たかったからでもある」  透真の視線が、ひとりひとりの顔を撫でていく。  そして、最後に言葉を結んだ。 「近々、三つの流派の長を集めて話し合いの場を設ける。  護心流、気錬流、閃刃流――  誰が、どこまで、始祖級に届くのか」 「……!」  ざわめきが広間を走る。  ナギはその単語を聞いただけで、背筋に冷たいものが走った。 「お前たちは、いつも通り鍛錬を続けろ。  今日明日で世界がひっくり返るわけではない。  ただ一つだけ、覚えておけ」  透真の眼差しが、炎のように揺らめく。 「南の灰の向こうで、何かが目を覚ましつつある。  噂はもう、ただの噂ではない。  いずれ、その名がここまで届く」  刻界ノ男。  まだ、その名は口にされない。  だが、確かに、その影だけが、広間の片隅に立っているように感じられた。 「解散」  透真の一言で、集まっていた者たちはそれぞれ持ち場へ戻っていく。  ミナトは軽く頭を下げ、第五の連中に目配せした。 「聞いたな」 「……はい」  レンは、いつもの笑みを浮かべている。  だが、その拳は固く握られていた。 「始祖級だろうが何だろうが、斬るのは同じだ。  足を出して、刃を振るだけだ」 「簡単に言わないでください」  ナギが呆れたように言う。  リツは二人のやり取りを聞きながら、静かに呟いた。 「守る重さも、同じじゃない」 「そうか?」 「人を守る重さは、増える一方よ」  その言葉に、三人とも黙った。  焚き火の火がない広間は、少しだけ寒かった。  砦の外では、灰色の空がゆっくりと暮れていく。  火を囲む者たちの笑い声と、噂話と、小さな戦い。  その全部が、まだ名のない大きな戦へと繋がっている。