第5章 廃都の縁にて ― 監視と不穏  灰は、静かに積もる。  だが、その静けさが長く続くとは限らない。  先行調査隊が灰灯廃都の縁に陣を構えてから、いくつかの夜と朝が過ぎた。 ◇  真砂の背中が丘の向こうに消えていったあと、潜伏地点には妙な空白が残った。  たった一人減っただけだというのに、焚き火もない場所の空気が、少しだけ広く感じられる。 「……行きましたね」  楓がぽつりと言った。  土と灰の匂いのする小屋の中で、膝を抱えて座っている。 「戻るさ」  春斗が短く答える。  声は軽いが、手は刀の柄の上で落ち着きなく動いていた。 「真砂は意外としぶといぞ。  俺なんかよりよっぽど周りを見てる」 「そういう問題ですか?」 「そういう問題だ」  二人のやり取りを、如月宗馬は黙って聞いていた。  潜伏地点の壁にもたれ、外の気配に耳を澄ませている。 「戻るか戻らないかを決めるのは、あいつの足だけじゃない」  やがて、宗馬が口を開いた。 「道の向こう側にいる奴らの都合もある」 「……失墜種、ですか」 「失墜種も、異存も」  宗馬は目を閉じた。 「だが、あいつは『戻る』と決めて出た。  なら、俺たちは『あいつが戻る前提』で動く。  疑い始めたら、ここにいる全員が足を止める」  春斗と楓は顔を見合わせ、それ以上真砂の話をしなかった。  代わりに、それぞれの任に戻る。 「見張りの交代だ。  春斗、楓。丘の上」 「はい」 「了解」  二人は潜伏地点を出て、廃墟と土塀の間をすり抜けながら丘を登っていった。 ◇  丘の上から見る灰灯廃都は、昼と夜で顔つきが違う。  昼は、灰色の海の上に駒を並べたような静けさ。  夜は、灰の中から抜け出してきた影が走り回る混沌。  この日は昼――だが、その静けさには、どこか刃物のような冷たさがあった。 「前より、増えてませんか」  楓が目を細める。  廃都の手前の広場のような空間に、異存者たちの列が昨日よりも長く伸びている。  人の形をした異存者。  布をまとい、顔を隠し、細長い指だけが露出しているもの。  影が地面から立ち上がったような輪郭のないもの。  彼らは、崩れた城壁の内側に整然と並び、一定の間隔で止まっている。  その配列は、美しいとさえ言えた。 「増えてるな」  春斗も頷く。 「列の端が、昨日より塔の近くに寄ってる」  視線を少し外せば、その周囲をうろつく別の影が目に入る。  四つ足で地を這う失墜種。  背から棘を生やした亜種。  灰の中から半身だけを突き出している群生めいた塊。  それらは、異存者の列を避けるように歩き回っている――ように見えるが、完全に避けきれてはいない。 「見てください、春斗さん」  楓が指さした先で、失墜種の一体が列にぶつかった。  炎痕型の体が、異存者の一人に噛みつこうと飛びかかる。  異存者は、ほんの少しだけ腕を動かした。  それだけで、失墜種の焔の鱗が砕け、地面に叩きつけられる。  だが、異存者はそれ以上追撃しない。  倒れた失墜種には目もくれず、列の中の位置を微調整するだけだ。 「制御してる……って感じじゃないですね」 「邪魔もの払い、くらいだな」  春斗の声には嫌悪が混じっていた。 「犬を飼ってるっていうより、道端の犬を蹴ってるだけだ。  あれで噛みつかれたら、多分あいつらも普通に血を流す」 「でも、放っとくんですね」 「ああ。  失墜種が失墜種を喰おうが、人を喰おうが、あいつらにとっちゃどうでもいいんだろ」  二人が見つめる先で、別の失墜種が、隙を見て列の端をすり抜けようとしていた。  異存者たちは、わざわざそいつを止めようとはしない。  ただ、自分たちの間合いに入り込まれたときだけ、軽く押しのける。 「利用はしているが、繋いではいない」  春斗が、宗馬の言葉を思い出して呟く。 「紐も首輪もない。  だから、いざというときには――」 「全部、敵になる」  楓が言葉を継いだ。  その喉が、乾いた音を立てる。  灰灯廃都は、砦にはない種類の戦場だった。  敵と味方の線が、はっきり引けない。  異存者同士でさえ、肩を並べているようには見えない。  そこに、人間が入り込めばどうなるか。  考えたくなくても、考えざるを得なかった。 ◇  夜が来る。  廃都の影が伸び、灰色の世界が黒に沈んでいく。  ただでさえ歪んでいる街並みの輪郭が、さらにわかりづらくなる。 「交代だ。  春斗、楓は下がれ。代わりに別組が上がる」  宗馬の声で、二人は丘を下りた。  潜伏地点に戻ると、乾いた肉と固い麦を口に押し込み、短い眠りに備える。  夜の見張りについた別の隊員たちが、ほどなく丘の上に腹ばいになる。  目の前には、昼とは違う景色が広がっていた。 「……灯りが増えてます」  一人が呟く。  廃都のあちこちに、ぽつぽつと小さな光が点り始めていた。  それは焚き火ではない。  炎の揺れ方が、人の火と違う。 「異存者の灯か、失墜種の焔か……どちらにせよ、ろくなもんじゃない」  もう一人が、不快そうに眉をひそめる。  遠くで、低く長い音が響いた。  雷鳴のようにも、地鳴りのようにも、誰かの悲鳴のようにも聞こえる。 「今の、何だ?」 「南東の方角です。  昨日の夜と、同じあたり」  空を見上げれば、黒い雲が渦を巻いている場所がある。  そこから、時折、白い閃光がにじむように漏れ出ていた。  雷、と呼ぶには何かが違う。  稲妻の線は見えない。  ただ、光った後に、どこか遠くで何かが崩れる音がする。 「……見ろ」  片方の隊員が、指さした。  廃都の外れ、城壁のさらに向こう。  そこに、巨大な影がいた。  月の薄い光に、輪郭だけが浮かび上がる。  四足とも二足とも言えぬ異様な姿。  背中からは塔のような突起が伸びている。  首がいくつあるのかも、一目には分からない。  巨獣型の別種――と呼ぶしかない何か。  それは、廃都そのものを見下ろすように立ち、動かない。  ただ、時折、背中の突起から淡い光が漏れ、そのたびに地面が振動した。 「動かねえ……」 「動いたら、多分、ここまで来ますよ」  二人は乾いた笑いを交わし、それ以上その巨影を見続けることをやめた。  目に焼き付けすぎれば、足がすくんで動けなくなると分かっていたからだ。  さらに上空。  黒い夜空を、音もなく横切る影があった。  大きな翼。  体そのものは細く、羽根なのか骨なのか分からない。  翼の端から、時折、灰が細かく降り落ちる。  影翼亜種だ。  影の中を滑空するように移動し、幻影を生成して惑わす。 「鳥、ですかね」 「鳥って呼べるなら、な」  黒い鳥影は、灰灯廃都の上空をゆっくりと旋回している。  その眼が何を見ているのかは分からない。  ただ、その視線の下に自分たちがいると思うだけで、背中に冷たい汗が流れた。 ◇  そんな夜が二度、三度と過ぎるうちに、先行調査隊の中に少しずつ歪みが生まれ始めた。 「なあ、隊長」  ある夜、短い休憩時間に、誰かが宗馬に声をかけた。  声の主は春斗だった。  普段は冗談を飛ばすことの多い彼の顔から、その時だけは笑みが消えていた。 「俺たちのやってることって、本当に意味あるんですかね」  宗馬は驚かなかった。  同じことを何度も自分に問うたからだ。 「どういう意味だ」 「こんだけ見て、数えて、覚えて……  砦に戻った真砂が全部話して、頭領たちが記録して。  それで、どうにかなるんですかね」  春斗は夜の闇の向こうを見た。  灰灯廃都の上空には、相変わらず黒い雲が渦を巻いている。 「あそこにいる奴は、城一つ、街一つ、刻ごと全部弄んでるように見える。  俺たちが何人で見張っても、斬れそうに見えない」 「そうだな」  宗馬は否定しなかった。 「見ているだけでは、何も斬れない」 「じゃあ、俺たちは……」 「斬るために見ている」  宗馬の声には、わずかに熱がこもった。 「斬れないと分かっていたら、誰も刃なんか持たない。  だが、どこを斬れば届くかを知っていれば、たとえ届かなくても刃を振るえる」  春斗は眉をひそめた。 「届かなくても、ですか」 「届かなかった一太刀は、次の誰かの足場になる。  灰灯を斬りに行くのは、俺たちだけじゃない」  宗馬は、灰色の空の下にある砦を思い浮かべた。  焚き火を囲み、噂話をしながら笑っていた若者たち。  そこにいる者たちの顔が、ここに並ぶ顔と重なって見える。 「俺たちが見たものは、全部向こうに届く。  届いたものをどう斬りに変えるかは、あいつらの仕事だ」  春斗はしばらく黙っていた。  やがて、小さく肩をすくめる。 「……ずるいですよね、隊長」 「どこがだ」 「『向こうの仕事だ』って言えば、自分たちはここで死んでも納得できるみたいな顔してる」  宗馬は少しだけ笑った。 「お前は、死ぬつもりか」 「嫌ですよ。  俺は帰って、ナギの前で土産話を自慢するって決めてますから」 「なら、それでいい」  宗馬は立ち上がった。 「帰りたい奴ほど、生き残る。  帰る先を諦めた奴から折れていく」  楓が、小屋の隅でその会話を聞いていた。  膝を抱えたまま、目だけが夜の闇に慣れている。 (本当に、帰れるのかな)  声には出さない。  出した途端、何かが崩れそうだったから。 ◇  そして、その夜が明けた。  薄い朝の光が、灰灯廃都の上に落ちる。  灰色の世界に、わずかに色が戻る――はずだった。  だが、その朝に限って、光はうまく地面に届いていないように見えた。 「……隊長」  丘の上に立った楓が、声を震わせた。  宗馬が隣に腹ばいになる。 「何だ」 「これ……」  彼の視界に飛び込んできたのは、昨日まで見てきた光景の延長線上ではなかった。  廃都全体が、揺れていた。  風ではない。  地震でもない。  崩れた家屋の壁が、一斉に立ち上がる。  倒れた塔が、根元から伸びあがる。  瓦が舞い上がり、屋根の上に戻る。  一瞬、そこには「かつての街」が姿を取り戻した。  城門が立ち、石畳の道が真っ直ぐ延び、町家が軒を連ねる。  しかし次の瞬間、それは音もなく崩れ落ちる。  壁が砕け、塔が倒れ、瓦が雨のように降り注ぐ。  元の廃墟に戻った――かと思えば、また別の形で立ち上がる。  違う配置。  違う順序。  違う崩れ方。 「……何だ、これ」  春斗が、言葉を失って呟いた。  視界の中で建物が何度も生まれ、何度も死んでいる。  その中心。  かつて城があった場所に、影が一つだけ、動かずに立っていた。  外套のようなものをまとった人影。  顔は見えない。  輪郭もはっきりしない。  ただ、その周囲だけは、崩壊と再生の渦の中でも、常に「中心」であり続けていた。 「城が……あいつの周りだけ、付き従ってるみたいですね」  楓の声は震えていた。  宗馬は、目を逸らさないように必死だった。  刻が、巻き戻されている。  ある瞬間の城。  別の瞬間の廃墟。  それらが無造作に引き出され、重ねられ、捨てられていく。  誰かの記憶の中の街を、外側に漏らしているかのように。 「これが……」  宗馬は喉の奥で言葉を探し、ようやく絞り出した。 「刻界、か」  口にした途端、背筋に冷たいものが走った。  名を与えることで、目の前の現象が「敵」として形を持った気がした。  廃都の空も、街並みと同じように歪んでいる。  雲が裂け、縫い合わされ、また裂ける。  太陽の位置さえ、わずかに揺らいで見えた。 「隊長」  春斗が息を詰めたまま言う。 「もし、俺たちがあそこにいたら……  崩れているのか、立っているのかも分からないうちに、潰されてますね」 「そうだろうな」  宗馬は認めた。 「足場そのものが信じられない場所だ」  だが、そこにいずれ踏み込む者たちがいる。  ミナト。  レン。  リツ。  ナギ。  そして、名もなき多くの戦継者たち。 「見ておけ」  宗馬は、隣の二人に言った。 「今、目に焼き付けておけ。  お前たちがここで見た『狂った足場』を、向こうでは誰かが『繋げる』」  楓は唇を噛み、ただ頷いた。  春斗も、喉を鳴らしながら「はい」と答えた。  廃都の空は、もう以前のような静かな灰色ではなかった。  刻が裂ける音こそ聞こえないが、目にはっきりと、その裂け目が見える。  灰灯廃都は、ただの廃墟ではない。  ひとつの「檻」を形作ろうとしている。