第6章 三つ巴の夜 I ― 若き戦継者の悲鳴 ――強き者は、戦いを求めていました。 それは欲ではない。生存の証。 われらの祖は"冑(かぶと)なき軍"を編み、 異存の影を墜とす。  だが、この夜、戦いを求めたのは誰だったのか。  若き者たちは、生存より先に悲鳴を知ることになる。 ◇  廃都の空が狂い始めたその日から、夜は一段と重くなった。  崩壊と再生を繰り返す街並みは、昼も十分に悪夢だったが、夜になると輪郭そのものが溶けていく。  潜伏地点の中は、息苦しいほど静かだった。  土と石と古い木で出来た狭い空間。  そこに十数人の戦継者が身を寄せ合っている。 「……今夜は、いつもより音が少ないですね」  楓が、小声で言った。  外の闇から聞こえてくるのは、風が瓦礫を撫でる音と、時折遠くで響く、雷とも悲鳴ともつかぬ響きだけ。 「静かなのは、悪い兆しだ」  春斗が、背を壁に預けたまま、柄を撫でる。 「獣だって、跳びかかる前は息を潜める」 「やめてくださいよ、そういうの」 「事実だろ」  二人のやり取りに、誰も笑わなかった。  真砂が砦に向けて出立してから、潜伏地点の空気は少しずつ変わっていた。 「隊長」  楓が如月宗馬を見る。  宗馬は膝の上に置いた手を組み、目を閉じていた。 「何だ」 「……真砂さん、着きましたかね」 「三日目の朝に出した。  足を止めなければ、もう砦に入っていてもおかしくない刻だ」  宗馬は目を開けないまま答える。 「問題は、あいつの足じゃない。  道の向こう側の都合だ、と前にも言ったな」 「はい」 「今は祈るしかない。  戻るという意思を持って走った者は、そうやすやすとは折れん」  そう言いつつも、宗馬の指先はわずかに震えていた。  自分が送り出した若者の行く末を、見に行くことはできない。  自分が守るべき戦場は、ここだからだ。 ◇  その夜、最初の異変に気づいたのは、丘の上の見張りではなく、潜伏地点に残っていた一人の隊員だった。 「……今の、聞こえました?」  焚き火もない暗がりの中で、彼が首を傾げる。 「何がだ」  春斗が聞き返す。 「土の下から、何か……」  言い終わる前に、足元が揺れた。  揺れ、というより、土が「割れた」。  潜伏地点の壁のひとつ――岩のように固いと思われていたその部分が、内側から盛り上がり、亀裂を走らせる。 「構え!」  宗馬の声が空気を裂いた。  全員が反射的に立ち上がり、刀や槍に手をかける。  次の瞬間、土の壁が爆ぜた。  そこから溢れ出してきたのは、土や石ではない。  蠢く肉の塊。  赤黒い粘液にまみれた、無数の腕と脚と牙の寄せ集め。 「群生型……!」  誰かが悲鳴のような声で叫んだ。  地殻型の別種が掘り進んだ穴から、群生めいた失墜種が潜伏地点へと流れ込んできたのだろう。  小さな人の頭ほどの大きさの「核」の周りに、無数の手足がまとわりつき、這いずるたびに形を変える。  その一体が、春斗の隣にいた隊員の足首に噛みついた。  骨が砕ける音。  隊員は叫ぼうとしたが、その喉に別の腕が伸びて指を突き立てた。 「結界!」  宗馬が足を踏み鳴らす。  護心流――彼の結界が、潜伏地点の床に広がった。  侵入してきた群生型が、見えない壁に阻まれて足を止めた。  その刹那を逃さず、春斗が刀を振り下ろした。  群生型の核と見える部分を狙って、一太刀。  しかし、刃はぐにゃりとした肉の層に阻まれ、感触を失う。  斬ったはずの場所から、また別の腕が生えてきた。 「しつこい……!」  春斗の歯が軋む。  その横で、楓が別の群れに囲まれかけていた。 「下がれ、楓!」  宗馬が結界の縁を踏み、再び結界を強める。  見えない壁が群生型の足を縫い、動きをほんの少し止めた。 「今だ!」  楓が悲鳴と共に斬り込む。  今度は深く、核らしき部分を真横から断った。  群生型が痙攣し、粘液を撒き散らしながら崩れ落ちる。  だが、穴の向こうからは、まだ別の影が蠢いていた。 「全員、外へ出る!」  宗馬が叫ぶ。 「ここはもう潜伏地点じゃない。  穴倉は、奴らにとって餌場だ!」  狭い空間で群生型に囲まれれば、結界を張る間もなく押し潰される。  外は危険だ。  だが、ここに留まるほうが確実に死に近かった。 ◇  砕けた壁から外へ飛び出すと、夜の冷気が肺に刺さる。  丘の斜面。  瓦礫の影。  崩れかけた土塀。  息つく暇もなく、その闇から新たな影が飛びかかってきた。 「通常種……!」  炎痕型の失墜種たち。  焔の鱗を揺らしながら、牙だらけの口を開き、唾液を飛ばしながら突進してくる。 「前列、結界! 後列、矢!」  宗馬の号令に応じ、護心流の結界が次々と展開される。  結界が重なり、丘の斜面に薄い網のように広がる。  弓を持つ者たちが、その網の上から矢を放つ。  矢は結界の中を通るとき、わずかに軌道を修正され、炎痕型の目や喉を正確に貫いた。 「押し込め!  結界の縁から出すな!」  春斗が前に出る。  斬り込んだ刀が、焔の鱗を割り、胴を断つ。  楓も、呼吸が乱れながらも必死に刃を振るう。  結界の中では、敵の踏み込みが半歩遅れる。  その半歩が、命を繋ぐ。 「隊長、右からも!」  別の隊員が叫んだ。  斜面を回り込むように、異型が現れる。  膨れ上がった腕。  炎の痕が全身を走り、亀裂から赤い光が漏れている炎痕型の異型。  その一歩ごとに、足元の土が焼け焦げる。 「異型……!」  訓練生が遭遇すれば退避を最優先とするべき相手。  だが、この斜面には退く場所がない。 「結界を重ねろ!」  宗馬が自ら前に出る。  護心流の結界を一枚、さらに半歩前にもう一枚、重ねるように展開する。  異型の巨腕が振り下ろされる瞬間、その腕の軌道が結界に触れる。  空気が歪み、腕の軌道がわずかに外へ逸れた。  地面が抉れ、土と石が飛び散る。  直撃していれば、前列はまとめて潰されていただろう。 「今ので、かすり傷……?」  楓の顔が青ざめる。  異型の腕には、かすかな裂け目が走っただけだった。  そこから漏れ出す炎が、むしろ強くなっているように見える。 「楓、前出るな!」  春斗が彼女の肩を掴んで引き戻す。  代わりに自分が一歩踏み出した。 「隊長、左は任せてください!」 「無茶をするな」 「無茶しないと、死にます!」  春斗は叫び、異型の足首めがけて斬り込んだ。  結界の中で、彼の一歩は普段よりも深く届く。  刃が炎の痕を割り、肉を裂いた。  異型が低い咆哮をあげる。  すぐに再生はしない。  だが、その怒りの矛先は、完全に春斗一人に向いた。 「かかってこい、でかいの……!」  春斗は喉の奥で笑った。  笑うしかなかった。 ◇  その時だった。  丘の下――廃都の外縁から、別の音が聞こえてきた。  足音。  だが、失墜種の不規則な足音ではない。  打ちそろえられた、整然とした歩調。  踏みしめるたびに、地面の石がわずかに震える。 「異存だ」  宗馬が奥歯を噛みしめた。  崩れた城壁の穴から、人影の列が現れる。  人に似た姿をした異存者たち。  顔を布で覆い、同じ方向を見ている。  彼らは、失墜種の群れを避けることなく、その間をすり抜けるように進む。  邪魔な個体だけを叩き落とし、それ以外は無視する。 「よりにもよって、この刻に……」  楓が呟いた。  潜伏地点近くの斜面は、すでに通常種と異型で手一杯だ。  そこに異存者の前衛が入り込めば、三つ巴は必然だった。  異存者の一人が、こちらを見上げた。  布の奥の目が、薄く光る。  その視線は冷たく、興味も怒りもない。  ただ、「そこに敵がいる」と認識しただけの光。 「全員、位置を崩すな!」  宗馬が怒鳴る。 「異存と正面からやり合うつもりはない!  奴らが失墜種とぶつかるまで、ここを死守する!」  しかし、世界は人の都合を待ってはくれない。 ◇  最初に崩れたのは、楓の右隣にいた若い隊員だった。  彼は、この外任が初めてではなかったが、灰灯廃都のような場に立つのは初めてだった。  群生型の第一波をどうにか凌ぎ、炎痕型の牙を弾き続けていたが、異型の咆哮を聞いた瞬間、足が竦んだ。 「む、無理だ……!」  彼は、無意識に一歩後ろへ下がった。  結界の輪から、ほんの少し外へ。 「戻れ!」  宗馬の声が飛ぶ。  だが、その声が届いたときにはもう遅かった。  斜面の陰から、別の異型が飛び出していた。  影纏型。  三日月のように細い黒い腕が、闇の中から伸びる。  逃げ出そうとした隊員の胸を、前からではなく、背中側から貫いた。 「――あ」  声にならない息が漏れる。  彼は自分の胸から突き出た黒い腕を、信じられないものを見るように見下ろした。  次の瞬間、その腕が横に払われる。  体が半ば空中で二つに裂けた。  上半身と下半身が別々の方向へ転がり、結界の光を血が汚す。 「外へ出るなって言ったろ!」  春斗が叫ぶ。  叫びながら斬り込む刃が、涙で滲んでいた。  異型は、結界の縁を嫌うように、その外側を滑るように移動する。  結界の内側は守りやすい。  だが、一歩踏み外せば、そこはただの夜だ。 「結界を広げろ!  縁をこちらに寄せる!」  宗馬が輪を組み替える。  しかし、同時に前から押し寄せる炎痕型を捌かなければならない。  一歩前に出れば前列が潰れる。  一歩後ろに下がれば、後列が闇に飲まれる。  どちらを選んでも、誰かが死ぬ。 ◇  異存者の列が、斜面の下まで迫ってきた。  その足元で、失墜種の群れが蠢きながら道を開ける。  異存者の一人が手を上げると、その周囲の失墜種の動きがわずかに変わった。  完全な制御ではない。  だが、「あちらへ行け」と命じるくらいのことは出来るらしい。  命じられた方向――それは、丘の上、戦継者たちが構えている斜面だった。 「こっちへ……来ます!」  楓の声が裏返る。  炎痕型だけではない。  異型が二体。  さらに、地面の下から群生型の蠢き。 「三つ巴、どころじゃねえな……」  春斗が吐き捨てた。 「俺たち、ただの的じゃないですか」 「的でもいい」  宗馬が言う。 「的がなければ、砦に矢が飛ぶ」  異存者の一団と、失墜種の群れが正面からぶつかり合う。  異存者の異能が光り、失墜種の腕や首が吹き飛ぶ。  だが、その飛び散った断片さえも、別の失墜種が貪る。  その渦の端に、戦継者たちの結界が重なっていた。  三つ巴。  誰が誰を狙っているのか、誰も完全には把握できない。 ◇  斜面の左側で、悲鳴が上がった。  炎痕型の異型が、一人の戦継者ごと地面を叩き割ったのだ。 「やめろ、やめろ、やめ――」  声が途中で途切れ、土と骨の砕ける音だけが残る。  結界の光が、血と炎に塗りつぶされる。 「楓、下がれ!」  春斗が無理やり彼女を押し出し、自分が前に出る。  異型の二撃目が、春斗の肩をかすめた。  皮膚が裂け、骨まで見える。  だが、彼は倒れない。 「まだだ……!」  片腕だけで刀を握り、膝を折りながらも斬り上げる。  刃が炎痕型の顎を裂き、赤い光がそこから噴き出す。  異型がぐらりと揺れた。  しかし、倒れない。  むしろ、その動きはさらに激しくなった。 「春斗さん!」  楓が叫ぶ。  その声が、別の叫びにかき消される。 「後ろ……! 後ろだ!」  振り向いた隊員の目の前に、影纏型の腕が迫っていた。  闇そのもののような腕が、彼の顔を掴み、そのまま頭蓋を握り潰す。  血ではなく、黒い霧が噴き出したように見えた。  逃げようとした者は、真っ先に闇に引きずり込まれる。  前に出ても死ぬ。  後ろに下がっても死ぬ。  逃げても救われない死が、斜面のあちこちで同時に起きていた。 ◇  そのとき、楓の耳に、別の音が届いた。  雷鳴。  だが、遠くからではない。  空ではなく、地面の上で、何かが弾ける音。  斜面の少し離れた場所で、失墜種と異存者の群れが一斉に吹き飛んだ。  残骸が宙を舞い、地面に叩きつけられる。  その中心に、紫がかった光が瞬いた。 「……何、あれ」  楓の声が震える。  そこには、まだ「誰」も立っていなかった。  ただ、落雷のような痕跡だけが、地面を焦がしている。  遠く、廃都のさらに奥。  崩れた塔の上に、三つの影が並んでいるのが、ちらりと見えた気がした。  冑も甲冑も持たない人の形。  しかし、その立ち姿から放たれる圧だけで、楓の膝が抜けそうになる。 「見るな。  あれは、今はまだ、俺たちの相手じゃない」  宗馬が低く言う。  目を逸らさなかったのは、彼自身だけだった。  ヴァルディス。  アークレオン。  イサリオ。  失墜種人型別種――上位三体。  この夜はまだ、遠くの塔の上から「遊び場」を眺めているだけだった。  だが、見られているという事実だけで、戦場は一段と残酷さを増す。 ◇ 「隊長!」  春斗が叫ぶ。  炎痕型の腕が、三度目の打撃を振り上げていた。 「このままじゃ、丘ごと潰されます!」  宗馬は瞬時に判断した。  この場に留まり続ければ、全滅は時間の問題だ。 「斜面を捨てる!」  彼は決断した。 「丘の裏へ回れ!  結界を繋ぎながら、退きつつ戦う!」 「でも、それじゃ――」 「ここで潰れるよりマシだ!」  宗馬の怒鳴り声が、若者たちの足を動かした。  護心流の結界が、一枚、また一枚と後方へ移動する。  その間にも、前線では血と悲鳴が絶えない。  丘の上で、「的」として晒されることを選んだ彼らは、今度は「逃げ場のない退却」を強いられている。  異存者たちは、その動きを冷静に見ていた。  追う者。  追わない者。  失墜種の背中を蹴って、別の方向へ向かう者。  三つ巴の夜は、まだ始まったばかりだった。