第7章 三つ巴の夜 II ― 上位の影と無名の死 ――強き者は、戦いを求めていました。 それは欲ではない。生存の証。 われらの祖は"冑(かぶと)なき軍"を編み、 異存の影を墜とす。  だが、この夜、戦場に集った「強きもの」は、生存の証を求めてはいなかった。  ただ、壊れる音と、消える光景を楽しんでいた。 ◇  丘の斜面を捨て、裏手へ回り込む。  それは退却ではない。  戦場を組み替えるための後退――宗馬はそう自分に言い聞かせていた。 「後列、結界を繋げ!  足元を崩すな!」  息の上がった声を無理やり押さえ込み、指示を飛ばす。  護心流の結界が、斜面から尾根へ、尾根から浅い窪地へと移っていく。  結界は、彼らの足場そのものだった。  しかし、その尾根に足を踏み入れた瞬間、宗馬の直感が警鐘を鳴らした。 (嫌な匂いだ)  土と血と灰の臭い。  それだけなら、もう慣れている。  だが、この夜の尾根には、別の匂いが混じっていた。  崩れる予定の石垣。  折れるはずだった木。  まだ起きていない「結果」の匂い。  宗馬が振り返るより早く、春斗が声を上げた。 「隊長……あれを」  彼の指さす先――廃都の一角、崩れた城壁の上に、三つの影が並んでいた。  一つ目は、長い外套をまとい、肩から垂れた布が地面に届くほどの長身。  顔は見えない。  だが、その立ち方だけで、そこが戦場の「上」だと分かる。  二つ目は、静かに佇み、戦場全体を見渡すような姿勢を取っている。  司令官のような落ち着きと、全てを見通す視線を持っていた。  三つ目は、身軽そうな体つきで、肩に軽い外套を引っかけていた。  髪とも雷ともつかぬ光が、その周囲をちらちらと踊っている。  風は吹いていない。  だが、彼らの衣だけが、別の風に靡いているように見えた。 「……見られてる」  楓が呟いた。  誰に向けた言葉か分からない。  ただ、あの三つの影の視線が、この尾根も、斜面も、廃都も、まとめて掌に乗せて見下ろしている――そう感じた。  上位人型失墜種。  壊滅の力を持つ存在・ヴァルディス。  統率の異能を持つ最上位・アークレオン。  記憶を奪いし者・イサリオ。  その名は、まだここにいる誰も知らない。  だが、冑なき軍の記録にはすでに、別の戦場でその影を見た者の震える字が刻まれていた。 ◇  最初に動いたのは、外套を引きずる長身――ヴァルディスだった。  彼は一歩、城壁の縁へ踏み出す。  その足が石の上に触れた瞬間、戦場の地図が変わった。 「……隊長?」  前を走っていた若い隊員が、足元を見下ろす。  数息前まで確かにあった浅い窪地が、消えていた。  いや、消えたのではない。  「無に帰した」のだ。  潜伏地点を出てから、彼らが「ここなら身を隠せる」と目をつけていた土塀の影。  瓦礫で自然に出来た遮蔽。  結界を重ねやすい平地。  それらが、ヴァルディスの「力」によって、存在そのものを消し去られていた。 「地形が……」  楓が息を呑む。 「さっきまで、あそこに塀が――」  言い終わる前に、塀であるはずだった場所に失墜種の群れが押し寄せた。  遮蔽を当てにしていた隊員たちの体が、丸裸の斜面の上で晒される。 「伏せろ!」  宗馬が叫ぶ。  だが、叫び声は、上から押し寄せる異型の咆哮にかき消された。  ヴァルディスは、戦場全体を俯瞰していた。  敵味方の陣形。  高低差。  遮蔽物。  退路。  彼にとってそれらは、「在る」か「無い」かでしかない。  腕を一振り。  その一振りで、大地の一部が「無に帰す」。  丘の尾根と斜面の境目が、「無かった」ことになる。  谷と窪地が、「消された」ことになる。  戦継者たちが「ここなら隠れられる」と信じていた場所が、一つ、また一つと存在を失っていく。 「結界、下げろ!  足場が――」  宗馬の声が途中で途切れた。  彼の足元の土が、一瞬ふわりと浮いたのだ。  斜面の一部が、下から切り抜かれる。  石と土が逆さまに落ちていく。  そこに立っていた無名の隊員が、叫ぶ間もなく闇の中へ引きずり込まれた。  落ちたのではない。  「そこに立っていなかったこと」にされた。  残ったのは、切り取られた位置よりも手前にいた者たちだけ。  彼らは息を詰め、自分のつま先と地面の境界を見つめた。 「……今、誰が」  楓が声にならない声で呟く。  さっきまで隣にいたはずの戦友の名が、舌の上からすべり落ちていく。  叫ぶ暇も、名前を呼ぶ暇もなかった。  ヴァルディスは、つまらなそうに指を払った。  戦場の一角が、また一つ「無」に帰す。 ◇  次に動いたのは、静かに佇んでいた影――アークレオンだった。  彼は静かに右手を上げる。  その動きには、命令者としての威厳があった。  アークレオンの目には、戦場が「統率すべき駒」として見えていた。  この男は逃げようとする。  この女は後退する。  この失墜種は、この瞬間に方向を変える。  この異存者は、この場所から前進する。  結果ではなく、「流れ」として見えている。  そして彼は、その流れを「命じる」ことができる。  彼の視線が戦場を撫でた瞬間、失墜種の群れの動きが変わった。 「隊長! 後ろの奴ら、失墜種が――!」  春斗の視界の端で、失墜種の一団が突然方向を変えた。  無秩序に暴れていた群れが、一斉に斜面へ向かって押し寄せてくる。  まるで、誰かに「命じられた」かのように。 「統率してる……あいつが!」  宗馬が奥歯を噛みしめた。  失墜種は本来、知性が低く、統制など取れないはずだった。  だが、アークレオンの「統率」は、それを可能にしていた。  完全な支配ではない。  だが、「あそこへ行け」「あいつを襲え」程度の命令は通る。  失墜種が一斉に戦継者の陣へ押し寄せる。  逃げようとした者が、真っ先に囲まれた。 「伏せろ!」  宗馬が怒鳴る。  だが、失墜種の波は止まらない。  そこへ、炎痕型の群れが流れ込む。  焔の鱗が煌めき、熱波が斜面を焼く。  逃げようとした者が、真っ先に死んだ。  それは勇気が足りなかったからではない。  アークレオンが失墜種を「そちらに向けた」からだ。 「……あいつ、何を」  楓には見えない。  だが、宗馬の目には、失墜種の動きに「意図」が見えていた。  無秩序ではない。  誰かが、糸を引いている。 「結界で……止められるか?」  宗馬は、試すように足を踏み鳴らした。  護心流の結界が広がり、失墜種の群れを押し返す。  だが、それだけだ。  命じられた方向は変わらない。  別の場所から、別の群れが押し寄せてくる。 「お前は、統率にまで手を出すのか」  宗馬は、まだ名も知らぬ司令官に、心の中で毒づいた。  だが、毒づいたところで、失墜種の波は止まらない。 ◇  最後に、肩に外套を引っかけた軽やかな影――イサリオが動いた。  彼は、城壁の上で軽く屈伸し、そのまま空へ跳んだ。  その動きは、雷光のように速かった。  次の瞬間、春斗の目の前の空間が白く染まった。 「――っ!」  耳が爆ぜる。  目が焼ける。  だが、その白は、イサリオの「異能」そのものではなかった。  イサリオは、「記憶を奪う」存在。  奪った記憶で、戦闘能力を獲得する。  今、彼が使っているのは、かつて奪った誰かの「雷を操る」記憶だった。  雷光が、斜面と尾根の間を縦横に走る。  一本の線ではない。  枝分かれした光が、失墜種を貫き、異存者を焼き、戦継者の肩を掠める。  掠めたはずなのに、その肩から先が消える。  焼け焦げた匂いはしない。  ただ、そこに「腕があったこと」が、すべて奪われる。 「はは」  イサリオの笑い声が、雷鳴の中に混じった。  それは人の声に近かったが、人よりも軽かった。 「当たる。当たらない。  残る。残らない。  どっちでもいいけど、どっちも面白い」  彼はそう言いながら、雷を踏み台にして移動していく。  地面を踏んでいるわけではない。  空に浮かんだ稲妻を石畳のように扱い、その一つ一つから跳び移る。  春斗は、雷の隙間を縫うように前へ出た。  イサリオの姿そのものは遠い。  だが、雷の「起点」は見える。 「ここだ!」  彼は、雷が走る一瞬前の空間に刃を振るった。  刃は何か硬いものに当たり、火花を散らす。  イサリオの姿が、遠くで首を傾げた。 「今の、届いた?」  雷光の線が、一瞬だけ軌道を逸らす。  そのわずかな逸れが、楓の頭上をかすめた雷を別の方向へ弾いた。  他の誰かが、代わりに焼き抜かれる。  名前も覚えていない後列の隊員。  雷に貫かれた瞬間、声をあげる暇もなく崩れ落ちた。 「春斗さん!」  楓が叫ぶ。  春斗は体を揺らしながら振り向いた。  左肩から先が無い。  雷を弾いた瞬間、腕そのものが「無かったこと」になっていた。 「……片腕でも、まだいける」  春斗は、乾いた笑いを浮かべた。  笑うことで、自分の身体の異常を認めないようにしている。 「楓。  下がるなよ」 「下がったら……」 「死ぬ」  言い切る声に、迷いはなかった。  彼は片腕で刀を構え直し、前を見た。  前にあるのは、失墜種の群れ。  異存者の列。  雷を踏んで遊ぶ人影。  そして、全てを無に帰す外套の男と、失墜種を統率する司令官。 「隊長、まだやれますか」  春斗が、血のにじむ口元で笑う。  宗馬は短く答えた。 「やるしかない」 ◇  戦場の音が、一度、極点を迎えた。  失墜種の咆哮。  異存者の短い号令。  雷鳴。  崩れる土塀。  叫び。  悲鳴。  骨の軋む音。  それらが一斉に重なり、耳を破る。  その中で、宗馬は最後の結界を張った。 「これ以上は……後ろがない」  尾根の向こうは、鋭い崖だった。  ここで踏みとどまれなければ、落ちるか、消されるかの二択しかない。 「全員、この結界から出るな!  ここが最後の地だ!」  彼は叫んだ。  護心流の結界は厚く、濃く、足元を照らす。  その光の中に、残った者たちの影が揺れる。  楓は、春斗の少し後ろで刃を構えた。  手は震えている。  だが、足は結界の中から一歩も出ていない。 (ここまで……来たんだ)  膝が笑い、胸が痛む。  目の前で、何人もの仲間が折れた。  名前すら覚えていない者もいる。  だが、その肩や背中の形だけは、まだ目に焼き付いている。 「楓」  春斗が低く呼んだ。 「はい」 「この後、俺が斬られるのを見ても、動くな」 「何を……」 「冗談だよ」  春斗は笑った。  その笑いは、ひどく不器用だった。  次の瞬間、雷が落ちた。 ◇  イサリオの雷は、今度はまっすぐ結界の中心を狙っていた。  稲妻の柱が、結界を貫く。  護心流の光と雷の光が、互いを噛み合いながら軋む。  宗馬は、両足で結界を踏みしめた。  雷が結界を焼き切ろうとする。  彼はその力を受け、別の場所へ流そうとする。  上から押しつけられる力と、下から支える力。  足元の土が、悲鳴を上げる。 「隊長!」  楓の叫びが届く。  雷光が一瞬弱まり、その隙間から炎痕型の腕が滑り込んできた。  春斗は迷わなかった。  片腕だけの体で、その腕を横から叩きつける。 「来いよ!」  刃が炎の亀裂を割る。  異型の腕が軌道を逸らされ、宗馬の肩を僅かにかすめて土に叩きつけられた。  次の瞬間、春斗の体の中心を雷が貫いた。  声は出なかった。  目も開いたまま。  彼の足は、最後まで結界の中から出なかった。  雷が収まったとき、そこには空いた空間だけが残っていた。  焼け跡も、血も、肉片もない。  ただ、「春斗が立っていた」という事実だけが、ごっそりと抉り取られていた。 「……春斗、さん」  楓の声はかすれていた。  手を伸ばそうとしても、そこには何もない。  伸ばした手は、空を掴むだけだ。 ◇  ヴァルディスは、退路を削り続けた。  尾根だと思っていた場所が、いつの間にか切り立った崖になっている。  足を滑らせた者は、そのまま闇の中へ落ちていく。  落ちる途中で、アークレオンの「命令」によって失墜種が方向を変え、落下した者を襲う。  命の落下が途中で終わる。  イサリオは、その様子を見ながら、雷を遊び道具にしていた。 「お前ら、よく持ったほうだよ」  誰にともなく言ったその声は、戦継者たちには届かない。  雷鳴と咆哮と悲鳴の中に溶けていく。  如月宗馬は、最後まで立っていた。  護心流の結界は、もうほとんど光を失っている。  脚は折れ、片目は潰れ、それでも彼は足元の結界を踏みしめていた。 (ここが……最後の地か)  彼は、遠くの砦を思い浮かべた。  焚き火。  飯場。  鍛錬場。  ナギの不器用な構え。  レンの豪快な笑い。  リツの静かな重さ。  その全部が、この結界の向こうにある。 「楓」  彼は、まだ生き残っている気配に向かって声をかけた。 「はい……!」 「ここで死んだ奴らのことを、覚えておけ」 「……全部は……」 「無理だ。  だから、一人でいい」  楓の目から、涙が零れた。  だが、足は動かなかった。 「お前が覚えている一人は、お前の中では死んでいない。  それで十分だ」  宗馬は、最後に空を見上げた。  歪んだ空。  裂けた雲。  そこに立つ三つの影。 「……冑なき軍の刃は、ここで折れる」  彼は静かに言った。 「だが、柄は砦に残っている。  誰かが、また刃を継ぐ」  その言葉が終わる前に、ヴァルディスの腕がわずかに動いた。  宗馬の立っている地面ごと、「無」に帰す。  宗馬の姿は、声も残さず消えた。  最後まで、結界の内側に立ったまま。 ◇  楓は、いつ倒れたのか、覚えていない。  足が動かなくなり、膝が折れ、視界が灰色に染まった。  何かが胸を貫いたのか、背から刺さったのか、わからない。  ただ、最後に見たのは、春斗の笑った顔と、宗馬の背中だった。  それで十分だと思った。  彼女の名前は、後に紅鱗録の中で一度も出てこない。  ただ、「先行調査隊十数名、灰灯廃都外縁にて全滅」と一行で括られるだけだ。  その一行の中に、彼女も、春斗も、宗馬も、その他大勢も含まれている。 ◇  戦場が静かになったとき、そこにはもう、人の声はなかった。  失墜種の群れは、異存者が命じた方向へ再び歩き出す。  食い残しを貪る者もいる。  異存者たちは、整然と列を組み直し、城の方へ戻っていく。  ヴァルディスは、「無」に帰した地形を一度見回し、つまらなそうに肩をすくめた。  アークレオンは、失墜種の群れに最後の指示を送り、視線を廃都の中心へ戻す。  イサリオは、雷の残り火を指でつつきながら、遠くの空を見上げた。 「まだ、面白くなりそうだね」  彼らにとって、この夜は「遊戯」の途中に過ぎなかった。 ◇  そのころ、灰灯から遠く離れた街道を、一人の戦継者が走っていた。  真砂。  足は既に血で濡れ、草鞋はとうに壊れている。  肺は焼けるように痛い。  喉は乾ききり、声は出ない。  それでも、彼は走っていた。  宗馬の声が、耳の奥で響いている。 『お前だからだ』  今となっては、何の慰めにもならない言葉。  だが、それだけが足を前に出させる。 (急がないと)  灰灯で何が起きているか、彼には知るすべがない。  だが、自分が見たものを伝えなければ、誰かがまた同じ場所で、何も知らずに死ぬ。  息が切れる。  足がもつれる。  それでも、彼は倒れない。  真砂だけが、この夜の三つ巴の戦場から生きて離れた。  彼の背中には、無名の死者たちの重さが、確かに乗っている。